元載の力
元載は、既に、魚朝恩を誅殺したので、代宗の恩恵を益々厚く受けていた。
軍を動かす力をもつライバルがいなくなったので、驕って、意気込み、過ぎたことをした。
人々の中で、何時も、高慢な言葉を口にした。
そして、自ら、文武の才略があり、古今に及ぶ者がいないとした。
“文武の才”と云えば、何処かで聞いた気がする。
そう、魚朝恩も同じことを云っていた。
元崔は、“才略”。
魚朝恩を倒した自信が云わせるのであろう。
知性を思いのままにし、権力を弄び、政で財産を成した。
身分不相応に奢ること、限りが無かった。
国子祭酒である吏部侍郎・楊綰は、教えに則り、依怙贔屓をすることもなく、性質は実直で、元載に忖度しなかった。
嶺南節度使の徐浩は、貪欲で口がうまく、南方の珍しい財物を、元載に贈り尽くした。
そこで、元載は、国子祭酒の地位を楊綰から、徐浩に代えた。
揚子江の南の赴任地から、都への栄転である。
徐浩は、越州の人である。
元載の元に、有徳の老人が宣州からやって来ていた。
そして、元載に官職を求めた。
元載は、その老人に、度々、任せる仕事が無いとした。
お年寄りなので、いくら学問があっても、なかなか思う様な仕事は無いであろう。
と、云っても、元崔としたら、頼りがいの無い人物とは、思われたく無い。
そこで、河北の節度使に一通の書状を送るように遣わす事にした。
ご老人は、喜ばなかった。
大した仕事では無いと。
だが、出かけ、幽州に着いた。
個人の書状であるが、覗き見た。
書状には、一言も書かれていなかった。
ただ、署名だけであった。
ご老人は、大いに怒った。
何も得られ無いのであればと、試しにその役所の役人に面会した。
判官は、元載の書状があると聞いて、大いに驚いた。
節度使に、立って報告した。
偉い人を遣って、箱に書状を受け取った。
館の佳い宿舎に泊まるようにし、数日、宴会をして歓待した。
帰る時、絹千匹を贈った。
ご老人は、満足して帰ったことであろう。
宰相様の力は、凄いと。
元載の権威は、人を動かす事、この様であった。
夏、
四月八日、
湖南の兵馬使・臧かいが、観察使・崔灌を殺した。
れい州刺史楊子琳は、兵士を従え、これを討った。
贈り物を受け取り、帰った。
けい原節度使の馬りんは、本部になる鎮が、荒らされ傷んでいるので、我が軍を助けてくれるように、訴えた。
代宗は、李抱玉に、
鄭州と潁州を譲るように、
と、云った。
四月十三日、
馬りんは、鄭潁節度使も兼ねるようになった。
四月二十八日、
王縉が、太原から参内した。
五月二十一日、
左羽林大将軍・辛京杲が、湖南観察使となった。
荊南節度使の衛伯玉の母親が亡くなった。
六月七日、
殿中監・王昂を代理とした。
衛伯玉は、大将・楊しゅつたちが、王昂を留めるのを拒んでいると、やんわりと伝えた。
六月二十三日、
詔で、再び、衛伯玉を、荊南節度使に置くようにした。
理由があったのである。
秋、
七月、
都が飢饉で、米一斗が千銭になった。
魚朝恩の部下である、劉希暹が、魚朝恩の死について疑いを持っていた。
魚朝恩に気を付けるように、告げた部下である。
劉希暹の口にした言葉は、“不遜”と云うふうに表現されている。
代宗に関しての事だったのかもしれない。
いつも一緒の王駕鶴が聞いた。
九月十二日、
劉希暹は、死を賜った。
吐蕃が永壽県に侵入した。
永壽県は、ひん州にある。
郭子儀がひん州にいるので、不安ではあるが、心配はしていない。