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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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石蜜

かつて、太宗様の時代、正確に云えば、

貞観二十二年(648年)、

五月二十日、

資治通鑑によれば、右衛率長使・王玄策が、那伏帝王・阿羅那順を大破したとある。

経緯いきさつを、述べよう。

中天竺王インド、尸羅逸多の兵士はこの地で最も強かった。

四天竺国は、皆、臣下であった。

四天竺国とは、東、西、南、北に分かれ、それと、中天竺国があった。

中天竺国は、かつて、漢の時代には“身毒国”と呼ばれ、“摩伽陀”とも“婆羅門”とも、呼ばれた。

唐の都を去ること、九千六百里の処にあり、葱嶺の南にあたり、国の周りは三万里であった。

南天竺は海沿いであり、北天竺は雪山に隔てられ、東天竺は扶南、林邑あたりで海に接し、西天竺はけい賓、波斯に接して、中天竺は四天竺の要であった。

王玄策は、使者として天竺に着いた。

諸国は、皆、貢ぎ物を遣わしていた。

王玄策は、その貢ぎ物を預かっていた。

尸羅逸多の兵士に会った時、国は、大いに乱れていた。

その臣、阿羅那順が独立しようとしていて、胡の兵士に王玄策を攻撃させた。

王玄策は、従者三十人の大将となって戦ったが、力敵かなわず、皆、捕らえられた。

おまけに、阿羅那順に諸国の貢ぎ物を奪われた。

王玄策は、夜、逃げ出して、吐蕃の西の国境に着いた。

書狀で、天竺の隣の国の兵士を求めた。

吐蕃は、精鋭千二百人を遣わした。

泥婆国は、七千以上の騎馬兵を遣わした。

泥婆国は、吐蕃の属国である。

吐蕃が命じたのであろう。

王玄策とその副官・将師仁は、大将となり、吐蕃と泥婆国の兵士を進軍させ、中天竺の茶はく和羅城に至った。

三日戦い、大破した。

三千余りの首を斬り、溺れて死んだ者が一万人いた。

阿羅那順は、城を棄て逃げた。

残りの兵士を取り押さえてから、帰り、将師仁と共に戦った。

また、これを破り、阿羅那順を捕まえた。

兵士を除き、その妃と王子を奉った。

乾陀衛江が邪魔をした。

将師仁は、進み、撃った。

敵の兵士たちは、持ちこたえられなかった。

妃と王子を獲た。

男女合わせて、一万二千人を捕虜とした。

ここ天竺が、驚き騒いだ。

城や村、投降する者のところは、五百八十箇所以上あった。

阿羅那順を捕らえて、唐に連れ帰った。

王玄策は、朝散大夫となった。






これは、資治通鑑に書かれていないが、太宗様は、石蜜の製法を教えてもらいに、王玄策を中天竺インドに送ったのである。

だが、代宗の時代になっても、唐には、石蜜は存在しない。

石蜜、固形の砂糖の事である。

あるのは、砂糖きびのシロップである。

王玄策が、伝えなかったとは思えない。

唐に根付くように、それなりに努力したのではないか。

だが、問題は、太宗様の方にあったと思える。

王玄策を送り出したあと、太宗様は、心配事を持った。

李淳風に、“武”と云う女人の予言を教えられたのである。

李氏の多くが殺される。

その女子は、一時いっときであるが、天下を支配する。

こんな話を聞かされれば、石蜜の事など、どうでもいい事として、頭から吹っ飛ぶであろう。

女子だから、後継者に絡んで(から)んでくるはずだ。

後継の事は、何がなくとも心配である。

唐の未来の為に、殺そうにも、死なないと云う。

太宗様の権力を持ってしても、どうにもならないらしい。

予言の事で、太宗様は苦しむ事になったのである。

今は、高麗との戦の最中でもある。

太宗様は、気持ちに余裕が無かったのである。

石蜜が、王玄策の失点でないと、分かるであろう。


その石蜜が、代宗の時代に思いがけず登場したのだ。

大暦年間、七百七十年頃の事と云われている。

四川省、遂寧で製糖業が起った。

さん山のほとりに庵を結んだ、す和尚の飼っていた驢馬が逃げて、近所の砂糖きび畑を荒らしのだ。

怒る畑の持ち主に、和尚はお詫びとして、糖霜の作り方を教えたと云う。

よく熟した甘蔗かんしょの汁を搾り、石灰で中和して煮詰める。

これを、甕に移して、放置すると、結晶がとれる。

これが、石蜜、すなわち、砂糖である。


太宗様の忘れていた砂糖が、百年以上たった唐で、やっと、完成したのである。


太宗様は、砂糖の存在を、どのように知ったのであろうか?

インドから、帰った者から聞いたのではないか?

貞観二十一年(647年)、

僧・玄奘がインドから帰った。

この時、太宗様は大喜びしたと云う。

玄奘は、すべての仏典を写したと云う。

木簡では無いであろうが(紙はインドに伝わってない。)何にかに写した、物凄い量の写本を持ち帰ったのであろう。

たくさんの馬か駱駝かに乗せ、何人かで持ち帰ったのであろう。

その旅の行程で食事の時、玄奘は、唐では見たことの無い、砂糖を知ったのではないか。

汁ではなく固形なので、駱駝の背で揺られても滲み出る事はなくしたたり落ちる事もない。

管理が楽である。

便利だと思ったのではないか。

普通の生活にも使える物であるが、戦の時の調理の際に、重宝するのでは、と。

太宗様との会話で何かの折りに、見せ、伝えたのではないか?

太宗様も納得したから、使者を送ったのでは。

す和尚も、仏教の関係者である。

こんな田舎の和尚が知っているのだ。

玄奘の帰郷の折りに随行したインド人から教わり、お寺では、当たり前に使っていた物かも知れない。



代宗は、眠っている華陽に見入っていた。

珠珠に感謝しなければ。

かつも、昇平も華陽のことを良い子だと、可愛がっている。

母親が違っても、わだかまりはないようだ。

我も華陽を育てて、“手をかけた子は可愛い”と云う意味を、実感している。

華陽は、柳晟を側に置くようになってから、益々、大胆になった。

我に黙って、画室を訪れ、絵師に色の画材について質問をしたと云う。

墨にも色墨がある。

だけど、色の風合いは薄いか濃いかの違いである。

代わりばえしないのが、気に入らないのであろう。

柳晟は、華陽を理解していて、画師たちに様々な、顔料を見せて欲しいと代弁したそうだ。

誦も一緒に行って、画師たちが書いている途中の画を見て回ったと云う。

朕に言ってくれれば、事前に顔料を用意させて置いたのに。

柳晟が、小さな声で云った。

元宵節に、父上だけを置いて行くから、華陽が帰って来るまで、使ったことのない画材で絵を描くようにさせてあげて、喜ばせたかったの。

と、仰ったのです。

陛下が一人寂しく待っていると、申し訳ないと思っていらっしゃいます。

でも、行かずにはいられない。

だから、一人で考えて行動したのです。

喜ばせようと思っているのですから、陛下には、云いません。

我にだけ、何処に行ったらいいのか、調べさせました。

誦様も、我も、顔料は高価で、危険な物だと説明され、聞いていて良かったと思いました。

赤色は、辰砂しんしゃ、鉛丹を使うそうです。

鉛丹は、見た目は白色ですが、燃やすと赤くなるそうです。

そんな事、絵師でなければ知りません。

だから、辰砂が無難で善く使われているようです。

白色は、牡蠣、ハマグリの貝殻を数年間、日光にさらして、粉々にするそうです。

青色は藍銅鉱を粉にして使い、卵の黄身を入れると、緑っぽくなるそうです。

緑は、孔雀石を使うそうです。

ただ、鉱石は、毒があるので、注意するようにとの事でした。

柳晟は、それから、下を向いて言い難くそうに、

誦様と絵を書くのがもっと楽しくなるね。

と、話しておられました。

お小さいけれども、賢い方です。

云われなくても、下心は分かっているよ。

こぼれを狙っていたのだ。

そんなの、お見通しだ。

代宗は苦笑いをした。

そして、改まった口調で、

柳晟、朕は華陽に、心が清らかな純粋な女子に育って欲しいとは、思っていない。

華陽が大人になる頃、朕は生きていないかもしれない。

そうしたら、守ることは出来ない。

華陽には、したにかに生きて欲しいと思っている。

人に泣かされ無いように。

朕を当てにしなくてもいいように。

だから、ずる賢さも必要なのだ。

これで、良いのだ。

他人が見たら可笑しいかもしれない。

だが、朕は、華陽にたくましく生きて貰いたい。

顔などの美しさを競うのではなく、人間力で競うようにしてもらいたい。

華陽は、それが出来る子だ。

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