魚朝恩の死
大暦五年(770年)
正月、
一月五日、
羌の長・白対蓬たち、それぞれの部落の帥が、属国として朝賀の挨拶に来た。
もう、回鶻は来なかった。
対等と思っているのだろう。
回鶻は、強い。
敵と思われていないだけ、ましである。
朝貢・貢ぎ物の御返しの調達が大変であった。
国の衰えが、感じられる。
歓軍容宣慰処置使、左監衛大将軍兼神策軍使、内侍監の魚朝恩は、専ら、朝廷の将兵を支配していた。
代宗は、常に国の軍事のことについて、一緒に話し合っていた、
話しは弾んで、朝廷のことだけでなく、民間のことにまで及んだ。
魚朝恩は、衆人の中に座って、きままに、時の政を語るのが好きであった。
宰相である元載を、侮り軽んじた。
元載は、道理に合わない弁論であっても、敢えて対応せず、黙っていた。
神策都虞候・劉希暹、都知兵馬使・王賀鶴は、二人共、魚朝恩に可愛がられていた。
劉希暹は、魚朝恩に、北軍(左右神策軍、左右羽林軍、左右龍武軍)の監獄の置いている場所を説明した。
坊や街中の悪たれ坊主を捕まえ、金持ちの名前を言わせた。
悪い罪だと欺き、地下の牢屋に捕まえ、縛りつける。
服を剥ぎ取り、訊ねる。
この時季だから寒さもあり、返答も早い。
その家の身代を帳簿に記入して取り上げ、軍に入れる。
捕らえられ告げた協力者には、褒美として分けた。
場所の在りかは、秘密にしている。
人は敢えて、云うことはない。
魚朝恩は上奏する度に、その時、必ず承認を得た。
朝廷の政では、思いがけない事がある。
その度ごとに、怒って云った。
天下のことで、我によらない事があるのか!
代宗は、魚朝恩のこの言葉を聞いて、喜ばなかった。
魚朝恩の養子・令徽は、まだ小さかった。
宮中の内給使となり、緑の衣を着ていた。
同じ官職の同僚と争い、怒って帰って、義父である魚朝恩に告げた。
次の日、魚朝恩は、代宗を見上げて云った。
臣の子の官職は、低いです。
仲間たちに、侮られています。
どうか、紫色の衣を賜われませんか。
代宗は、未だ答えていなかった。
しかし、代宗が魚朝恩を可愛いがっているのを知っている役人が、紫色の衣を取り、前に置いた。
令徽の服であろう。
魚朝恩は、感謝してお辞儀をした。
代宗は、無理して笑った。
そして、云った。
子の衣は紫。
大いに結構。
口で云う言葉とは裏腹に、心は、益々乱れた。
元載は、代宗の気持ちを推し測ろうとした。
宦官たちに聞いたのだ。
確かな情報をもとに、魚朝恩が、もっぱら人の守るべき道に従っていないから、魚朝恩を取り除くように、代宗に請うた。
代宗は、天下も、また、魚朝恩に怨み怒っていると知った。
遂に、元載に謀り事をするように命じた。
魚朝恩は、宮殿に入る度に、周こうを将とした百人の射生を自衛のために使っていた。
また、仲間の陝州節度使・皇甫温の部下の兵士たちを応援のため、室外に置いていた。
元載は、賄賂を何度も贈り、周こう、皇甫温と結びついていた。
だから、魚朝恩への謀り事が陰で密かに語られていたのである。
代宗は、元載から、一つ一つ聞いた。
魚朝恩は、まるで分かっていなかった。
一月二十七日、
元載は、代宗に企ての実践をさせた。
李抱玉を山南西道節度使にし、皇甫温を鳳翔節度使とした。
その権限は、外からは重く見えた。
その実、皇甫温の努力であった。
元載は、また、び、宝鶏、こ、ちゅうしつ、の県を、李抱玉に担当させ、興平、武功、天興、扶風を神策軍に担当させた。
魚朝恩は、土地を得たと喜んだ。
これは、魚朝恩の危惧と我が儘ゆえに、元載がした事ではない。
一月二十八日、
河南府尹・張延賞を洛陽の代理とした。
河南府らの道の副元帥は、辞めさせた。
だから、その兵士たちを、河南府の代理とした。
張延賞は、張嘉貞の子である。
二月五日、
李抱玉は、ちゅうしつに鎮を移した。
ちゅうしつは、渭水の南にあり、長安に行く渭橋より西にあり、田舎に行く感じであった。
軍の将士は、激しく怒った。
今まで、住んでいた鳳翔の街中で、大いに暴れ、掠め取った。
数日して、気持ちも落ち着いた。
劉希暹は、代宗の様子に頗る違和感を感じた。
そこで、魚朝恩に告げた。
魚朝恩も、疑い、怖れ始めた。
しかし代宗は、会うごとに、恩寵が益々盛んであった。
魚朝恩は、それでもって、また安心した。
皇甫温が、都に来た。
元載は、皇甫温を都に留め、未だ、赴任させなかった。
だから、皇甫温と周こうは、魚朝恩を殺す謀り事に時間をかけたのである。
すでに、計画は定まった。
元載は、代宗に告げた。
代宗曰く、
良い計画だ。
禍を受けることは、勿論ない!
三月十日、
寒食の日である。
代宗は、酒を置き、身近な貴人たちと、宮中で宴をした。
元載は、中書省で番をしていた。
企みを思うと、酒は呑まない方が良い。
仕事があると退出したのであろう。
魚朝恩は、護衛を多く連れている。
企みがバレたら、宮中が争いの場となる。
その時は、元載が指揮しなければならない。
だから、酒を呑まず、様子を伺っていたのであろう。
宴も終わり、魚朝恩は陣営に帰ろうとした。
代宗は、魚朝恩を留め、違う考えもあろうと話した。
魚朝恩は、まくし立てた。
語ることは、頗る、奢って我が儘であった。
周こうと左右の者が酔った魚朝恩を押さえ付けた。
首を絞め、殺した。
代宗が誘ったこの宴が、企みを成功に導いたのだ。
外にいた者は、何も知らなかった。
代宗は、詔を下した。
魚朝恩の観軍容使など、内侍監を罷免する。
そして、話を作った。
魚朝恩は、詔を受け、自ら首を括った、と。
そこで、遺体を魚朝恩の家に届け、葬式の費用として、六百万銭を賜った。
三月十四日、
劉希暹と王賀鶴に、御史中丞の官職が加えられた。
北軍を慰撫せよ、との心であった。
三月二十三日、
京畿の捕らえられた囚人を許した。
魚朝恩とその仲間を許す命を下した。
そして、曰く、
北軍の将士たちは、皆、皇帝である朕を助け守る護衛の者たちである。
昔のように具合が良い。
(玄宗様の頃を思い出したのである。玄宗様は、禁軍の帥・陳玄礼に兵士の前でいろいろ命じていた。兵士たちは、その様子を見て、直接命じる者が陳玄礼でも、玄宗が命じた時は、どちらの命に従うべきか、分かっていた。粛宗様の時は、李輔国に禁軍を奪われた様であった。やっと、取り戻せたと云う想いが、この言葉になったのである。)
朕は、今、宮中の軍隊に親しむ。
憂いも怖れも無い。
課題の一つが成された。
晴れやかな心であった。
三月二十六日、
度支使や関内などの道転運、常平、塩鉄使、その度支事など、宰相の担当とした。
皇甫温に、元々いた陝州に帰り鎮し治めるように、命が下った。