崇徽公主
かつて、僕固懐恩が死んだ時、代宗は、僕固懐恩は功績があったとして娘を憐れみ、宮中に置いて公主として養った。
去年、回鶻では、僕固懐恩の長女の回鶻の皇后、可敦が亡くなった。
四月、回鶻は、新しく可敦となる者を唐に求めた。
夏、五月二十四日、
僕固懐恩の下の娘を、崇徽公主として、冊立した。
回鶻に嫁がせるためである。
代宗は、思い通りに事が運んだと内心悦んだ。
華陽は、今年、七才。
手離せる年ではない。
また、手離す気持ちもない。
後の公主たちは、華陽よりも年下である。
いずれにせよ、養女が必要だったのである。
五月二十五日、
兵部侍郎・李涵に送らせるようにと遣わした。
李涵は、祠部郎中の虞郷の董晋を判官とするように上奏した。
六月一日、
崇徽公主は、宮殿を退き、李涵と董晋に付き添われ、回鶻に向かった。
回鶻の可汗の陣幕に着いた。
だが、それ以降の記述がない。
嫁がされた崇徽公主は、謀反人・僕固懐恩の娘として、どんな思いをしていたのか?
歓迎されないのは、分かっている。
可敦と云う立場は、僕固懐恩の娘として、針の筵である。
いくら、皇帝が嫁げと云っても、その座に座る立場にない。
こんな自分を、押し付けられて、可汗が気の毒でならない。
可汗と顔を合わせた時、跪き、深々とお辞儀をした。
そして、可敦になろうと云う、厚かましい事は考えておりません。
ただ、父がかけた迷惑、姉の受けた御恩を返すためにも、奴婢のごとく勤めたいと存じます。
幸い、唐では、教育を受けました。
字を学び、楽器をいくつか嗜み、舞いと絵を習いました。
宴会の折りには、上手くはありませんが新しい旋律をかなでましよう。
書簡を認める折りには、代筆をいたします。
遠慮なく、お使い下さい。
この地に必要な者になりたいのです。
父の娘、姉の妹として、償わせて下さい。
必要ない者ならば、殺して下さい。
この身のあり様は、お任せします。
姉・寧国公主の時のように、次の日に冊立されたとの記述はない。
代宗のこの人選は、回鶻との間に溝を作ったのではないか?
唐にも回鶻にも、僕固懐恩は謀反人とされている人物である。
特に、回鶻が喜ばない相手である。
回鶻では、騙されたとの、確執がある。
代宗の判断に疑問符が付けられる。
回鶻が唐に来て、云った。
唐は、我の為に市を作ると約束した。
馬は、既に、搬入した。
だが、我の帰りの費用が足りない。
どうして、我が人を使って馬の代金を取りにくるのだ。
李涵は、怖れた。
敢えて、対応しなかった。
王縉を見た。
王縉曰く、
我には、そなたと作る市の為の馬が無いのではない。
汝のために多くを賜らないのは、どうしてか!
汝の馬は、幾つになる。
(あきらかに、年老いた馬を連れてきたのだ。ストレートな質問である。)
我は、皮を数えて、帰りの費用とする。
その馬の生死を計算してとは、言わない。
回鶻の役人は、きちんと計算するように請うた。
天子は、そなたたちの苦労を心配している。
だから、他人の財産に害を加える事を禁止している。
諸々(もろもろ)の異民族は、大国である唐と回鶻が、共に居ること怖れている。
敢えて、数を調べることはない。
そなたたち父子は、馬を育てる異民族にすぎないのだ。
我は、誰のお金を使っているのでもない!
ここで、周りにいた者たちは、王縉を取り囲み、拝礼をした。
すでに、唐の天子、回鶻の天子は、南面して並び、舞いを観賞していた。
久しぶりに会った時、代宗は、突利可汗によそよそしさを感じた。
代宗には、直ぐに解った。
崇徽公主の事で怒っていると。
これから起こるであろう、両国のいざこざが、想像できた。
華陽の事は、金で解決するようにしなければ。
無理難題に気持ちよく、回鶻の得になるように決定しよう。
お金で済んだと思えば、腹は立たない。
唐が、揺らいだわけでは無いのだ。
華陽は、守られたのだ。
舞いなど、目に入っていなかった。
皆、両手を挙げて云った。
敢えて、大国の意思は有ると云えない。
王縉の言葉である。
いざこざが起きないように、王縉には、方針を伝えていたのだ。
回鶻の意に逆らわないように。
六月十二日、
王縉は、副元帥、都統、行営使を辞めたいと、上奏した。
六月二十五日、
郭子儀は、河中節度使から、ひん州に移った。
その精兵は、皆、みずから付いて行った。
自分の意思で郭子儀を選んだと云うことだ。
残りの兵は、副将が将となって使った。
河中節度使と霊州節度使に分けて守るようにしたのだ。
軍使の中には、長く河中節度使を家のようにしていたので、すこぶる楽しまず、往々にして、ひん州から逃げ帰った。
行軍司馬の厳郢は、留守になった河中節度使を治めていた。
逃げ帰った者を、ことごとく捕らえ、その首謀者の親玉を殺した。
兵士たちの心は、安定した。
秋、
九月、
吐蕃が霊州に侵入した。
九月十二日、
朔方節度使の代理・常謙光が吐蕃を撃ち破った。
河東兵馬使・王無縦、張奉璋が功績をほこり、奢り道理をわきまえなかった。
二人は、王縉の書生であった。
多くの約束をして、簡単に破った。
王縉は、秋になると食べ物を求めて蕃族が侵入するので、塩州に兵士を出動するように詔を受けた。
王無縦と張奉璋を長とした、歩兵騎兵三千を赴かせた。
張奉璋は、途中で留まり進まず、王無縦は、仕事を他人に任せ、勝手に太原城に入っていた。
王縉は、その仲間たち七人と合わせ、悉く捕らえ、斬った。
諸将は、戻ってきた乱暴者たちを、斬り尽くした。
軍府は、安定した。
冬、
十月、
常謙光が、長さ四十里になる隊列で吐蕃が鳴沙に侵入したと、上奏した。
郭子儀は、兵馬使・渾かんを、五千の精兵で霊州を救うように、遣わした。
郭子儀も、自ら進軍して、慶州に着いた。
聞けば、吐蕃は、退却したと云う。
郭子儀が、年齢にもかかわらず、元気よく出陣したので、戦う気が失せたのだろう。
郭子儀たちは、帰って行った。
黄門侍郎、同平章事である杜鴻漸が病を理由に辞位を申し出た。
九月七日、
許可した。
十月十日、
杜鴻漸は、亡くなった。
杜鴻漸は、病が酷く、僧侶のように髪を剃るように云いつけ、遺言では、塔に埋葬するようにとの事であった。
仏教を厚く信じる者らしかった。
十一月十二日、
左僕射・裴冕は同平章事でもあった。
元載は、裴冕を新平の尉にしようとしたことがあった。
よく知った人物であったのである。
裴冕は、かつて、宰相に推薦されたこともあった。
だから、元載は、宰相として名前を挙げた。
老いて病がちなので扱い易いから、都合がいいと考えたのだ。
裴冕は、宰相にとの命を受けた時、お礼の蹈舞をして、地に倒れた。
蹈舞とは、貴人に対し感謝を表す、儀礼の舞いである。
特に、昇進の時に行われる。
元載は、貴人の前を礼儀通り小走りに走って、裴冕を助け起こした。
そして、裴冕に代わり、感謝の言葉を述べた。
十二月四日、
裴冕は、亡くなった。