華陽の名
代宗は、部屋に帰った。
華陽が、すっ飛んで来た。
ち~上、今日は、どうだった?
あ、あ、良い日だったよ。
寝台の上に華陽は座り、代宗の着替えを見ていた。
その時、昇平が訪れた。
華陽は、珍しく、
華陽の話を先にしたかったのに。
と、云った。
代宗は、寝台から、華陽を抱き上げ、昇平に
悪いが、華陽の話を先にしたいのだが?
と、頼んだ。
昇平は、
良いわよ。
と、答えた。
代宗は、寝台に腰を下ろし、
話してごらん。
と、華陽に問い掛けた。
華陽は、
ち~上、何で、華陽って名前にしたの?
と、聞いた。
代宗は、昇平を見た。
なんで、そんな事を聞くのだ?
今日ね、誦の処で、お勉強してたら、“陽”は、偽るって意味があって、“陽死”なら、死んだ振り、“陽眠”なら、寝た振り、狸寝入りって、習ったの。
華陽、それを聞くと、嬉しくなかった。
華陽は、華の振り。
そんなの嫌だ。
横で聞いていた昇平が、
父上、賢いのも、困り者ね。
と、口をはさんだ。
代宗は、
本当だ。
華陽は、賢すぎるのだな。
華陽、どうしたいのだ?
“陽”の字を取っ払いたい。
じゃ、陽の代わりは、どうする?
華陽はね、華“か”がいい。
ほう、その後ろの“か”の字は、どんな字を使う。
それが、相談なの。
だって、華陽、まだ小さくて、あまり、字を知らない。
ねぇ、姉上は、どんな字がいいと思う?
急に云われてもね。
命名の云われを聞いている昇平は、代宗を見た。
代宗は、
昔、華陽と云う、女子がいたのだ。
その女子、お嫁に行ったが、子供が生まれなかった。
婚姻相手は、秦の二番目の皇子だったのだが、皇太子が死んで、その相手、安国君が皇太子になったのだ。
そこへ、呂不韋と云う者が、
子供がいないまま、年をとると安国君の寵愛が薄れる時が来ます。
と、云ったのだ。
その時、華陽妃は、最も愛されていたのだ。
華陽妃は、呂不韋の話に、成る程と思った訳だ。
そこで、呂不韋は、趙の人質になっていた安国君の息子、“えい異人”を紹介したのだ。
異人は、華陽妃が、楚の王家の出身なので、“楚”の字を使い、“子楚”と名前を変えていた。
気にいって貰うために。
思い通りに、子楚は、華陽妃の養子になった。
安国君は、孝文王となった。
正妻の養子と云うことで、孝文王の跡を継ぎ、子楚は荘襄王となった。
子楚の子が、始皇帝なのだ。
だから、華陽妃は子供は授からなかったが、次の王の義理の母となり、その次の王の義理の祖母となり、立場は安定して、何も困らずに死んだ、と、父上は思っている。
だから、華陽には、華陽妃にあやかって欲しいと思って、付けた名前なのだ。
ふ~ん。
そうなんだ。
でも、華陽は、嫌なの。
では、もう少し大きくなってから、決めよう。
後で、こっちの方が良かったって、字が出て来るかも知れないから。
分かった。
じゃ、“華か”でお願い。
父上や、姉上、兄上、誦なんか、周りの人だけでも、そう呼んで。
華陽の話は、終わったのね。
違う。
華か!
御免、華か。
じゃ、これからは、昇平の話。
父上、この頃、仏教に熱心だって?
父上は、皇帝だから、あまり、他人は云わないけど、思い出したの。
粛宗様、お祖父様も、同じように幕営の道場で、数百人の僧侶に、朝早くから夜遅くまで、読経をさせていたの。
覚えてる?
早く、長安を取り戻したいと、思っていたからなのね。
張鎬が、宰相になって直ぐに、
国家は、まさに、徳を修めてもって、乱を糺し、民を安んずるものです。
未だ、僧侶を養って太平が来たとは、聞いた事がありません。
と、諫めたの。
お祖父様、直ぐに、止めたそうよ。
父上と同じ事を、お祖父様もしていたの。
ても、張鎬の意見を聞いたの。
だから、これだけは、云っておこうと思って。
そなた、張鎬を忘れられないみたいだな。
そうかもね。
郭家に居ても、張鎬のような人はいないと思う。
父上(郭子儀)は、別だけどね。
一言だけ、云っておきたかったの。
じゃあ、父上からも、一言。
我は母上のために、寺を建てて、思ったのだ。
母上は卑しい身分だった。
だから、(息子の)父上に、惨めな思いをさせないために、死んだのだ、と。
母上に、少しでも、報いたい。
父上の、それが気持ちだ。
さあ、帰りなさい。
遅くなった。
曖が、待っている。
華陽の話を、二人で聞けて良かった。
昇平には、いつも、助言を貰っている。
ありがとう。
大暦三年、
春、正月、
一月二十日、
代宗は、完成した“章敬寺”を、訪れた。
大きくて立派に出来ていた。
母親が、寺に相応しい身分になったようで、嬉しかった。
この寺のために、僧侶、尼僧、合わせて千人を得度させた。
この寺、専任の僧侶と云うことだ。
丹丹が生きていたら、一緒に喜んでくれたのに。
丹丹の位牌も、置こう。
母上が喜ぶ。
その様子を思い浮かべると、代宗は、つい笑った。
建寧王・たんに、斉王を贈った。
二月十八日、
商州の兵馬使・劉洽が、防禦使・ 殷仲卿を殺した。
調べ、劉洽を討ち、平らげた。
二月十九日、
郭子儀が、理由は云わなかったが、軍中で馬を走らせる事を禁じた。
危険な様子を、見たのだろうか?
(郭子儀の妻である)南陽夫人の乳母の子が、罪を犯した。
都虞侯が、罪人である乳母の子を、杖殺した。
郭子儀の子供たちが、都虞侯の横で、泣いて郭子儀に訴えた。
子供たちにとって、兄弟同然の者であったのだろう。
だが、郭子儀は、身分が上だからと云って、無理を通したりはしない。
法に従うのみである。
でないと、悪い例になる。
無理が効くとなると、良いことは何もない。
この位なら、許されるだろう。
と、続く者が現れる。
郭子儀は、叱った。
次の日、都虞侯は、話し相手にため息混じりに云った。
郭子儀の子供たちは、皆、小者だ。
父親の立場として、妻の乳母の子を惜しんだとしたら、褒められないと、した。
死んだ子のために、泣いて訴える。
そんな事をして貰って、乳母は嬉しいだろうか。
すでに子供は、死んだのだ
何が、小者でないのだ!
二月二十五日、
後宮の、華陽の母親である、淑妃・独孤氏を貴妃とした。
華陽の為であった。
華陽の身分を、少しでも、良くしたかったのだ。
三月一日、
日食があった。
夏、
四月四日、
山南西道節度使の張献誠が、病を理由に従兄弟の右羽林将軍・張献恭を身代りとしたいと申し出た。
代宗は、これを許した。
四月二十八日、
西川節度使の崔かんが朝廷に出仕した。
初め、代宗は、宦官を衡山に遣わし、李泌を召した。
李泌がやって来たので、金印紫綬(金の印と、その印の飾りひもを“授”と云う)を、再び、賜った。
金紫(金印紫綬の略)は、高官が使う物で、官に着けと云う暗示である。
かつて、霊武で、粛宗が李泌に金紫を賜ったが、李泌は断り、衡山に帰ったのであった。
代宗は、粛宗が年下の李泌を先生と呼び、同じ部屋で寝台をくっ付けて寝て、馬を並べて話をしたのを知っていた。
初めて会ったのは、粛宗が、皇太子になった時であった。
代宗は、小さかった。
霊武では、張皇后から守ってくれた。
粛宗に忠告してくれたのである。
そして、先を見る人であった。
代宗としては、是非、欲しい人であったのである。
仕事が出来るだけでなく、信頼出来たのである。
だから、李泌の為に、蓬莱殿の側に書斎を作った。
そこまでして、李泌を招いたのである。
五月、暑い盛りである。
代宗は、衣の中の肌着に汗をかいていた。
履き物は、きちんとはかずに、突っ掛けていた。
少しでも、涼もうとしたのであろうか。
給事中、中書舎人から上の位の人の官位を決め、授けた。
そして、国の軍事は大切とばかりに、皆で議論して、地方の守りをする鎮の人の官位も決め、授けた。
魚朝恩に、白花屯の地に李泌の為に別邸を作らせる事にした。
その話し合いでは、李泌は、魚朝恩と昔からの知り合いのようにしていた。
代宗は、李泌を、門下侍郎、同平章事・宰相としたいとした。
李泌は、固辞した。
代宗は、云った。
重要な政務の煩いで、朝早くから夜遅くまで、顔付き合わせざるを得ない。
本当に、住まいがとても近いのは良い事だ。
何で、必ず、勅書に署名して、しかる後、宰相になると思っているのだ!
端午の日だから、王、公、妃、公主たちがそれぞれ服やら玩具やらを献じてくれている。
代宗は、李泌に云った。
先生は、一人、何で献じる物が無いのですか?
李泌は、云った。
臣は、今、朝廷に居ます。
頭の頭巾から、履き物に至るまで全て、陛下から賜った物です。
余す処の物は、ただ身一つだけです。
何を献じろと云うのですか!
代宗曰く、
朕が、求める物は、正にそれのみ。
李泌曰く、
臣の身は、陛下の物ではありません。
誰が、そうだと云うのですか?
代宗曰く、
先帝は、卿に、宰相になって貰いたかったけれども、卿に屈して、卿を得られなかった。
端午の日、今からは、その身はすでに、朕に献じられています。
まさに、ただ、朕の所有する者。
卿の物では、無いのだ!
李泌曰く、
陛下は、臣をどのように使いたいのですか?
代宗曰く、
朕は、卿に酒や肉を食べて貰いたい。
家には妻を持って貰いたい。
官位を受け、祿を受けて欲しい。
俗人になりなさい。
李泌は、泣いて曰く。
臣は、穀物を絶って二十年以上。
陛下は、何で、その志をやり遂げさせてくれないのですか!
代宗曰く、
何で、また、しつこく泣くのだ!
卿は、今、朝廷の中にいます。
何をして欲しい?
そこで、宦官に、李泌の父親と母親の葬式をするよう命じた。
また、李泌に、盧氏の娘を妻とするようにした。
費用は、天子が皆出した。
そして、光福坊に邸を賜った。
光福坊は、長安城の中央通り東側、朱雀門街に面した、宮城寄りの場所にある。
そして、李泌に邸に数日泊まるように、そして、数日は蓬莱院に泊まるように、命じた。
代宗は、李泌と話をしていて、斉王・たんに厚く褒美を賜りたいとの事に及んだ。
李泌は、兄弟の岐王・範、薛王・業が、玄宗から、太子号を贈られた故事から、代宗に、斉王・たんにも号を請うた。
玄宗の兄弟は、玄宗が一番の長生きで、長兄・憲がそれに続いた。
六人いた兄弟で、一番下の隆悌は、早くに亡くなった。
五人兄弟として、育ったのだ。
次男・きは、開元十二年、亡くなった時、恵荘太子を贈られていた。
三男は玄宗で、
四男・範は、開元十四年、亡くなった時、恵文太子を贈られていた。
五男・業は、開元二十二年、亡くなった時、恵宣太子を贈られていた。
長兄・憲には、開元二十九年、亡くなった時、譲皇帝を贈った。
玄宗は、兄弟、全員に号を贈っていた。
李泌は、その事を云っているのだ。
代宗は、泣いて曰く、
我が弟を要として、霊武の諫めと定めたい。
弟には、中興の功績がある。
岐王、薛王が、弟と比べ、どうして功績があるといえようか!
弟・たんは、真心を尽くし、忠孝であった。
ただ、出鱈目を云って讒言する者に、殺される処になった。
朕は、必ず、たんを“皇太弟”とする。
今、まさに、帝号をもって貴ばせよう。
我の昔からの志が、叶えられる。
五月十二日、
斉王・李たんに、諡を贈り、“承天皇帝”とした。
そして、興信公主の娘、張氏を“恭順皇后”として、冥婚させた。
五月十七日、
二人を順陵に埋葬した。