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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
306/347

華陽の名

代宗は、部屋に帰った。

華陽が、すっ飛んで来た。

ち~上、今日は、どうだった?

あ、あ、良い日だったよ。

寝台の上に華陽は座り、代宗の着替えを見ていた。

その時、昇平が訪れた。

華陽は、珍しく、

華陽の話を先にしたかったのに。

と、云った。

代宗は、寝台から、華陽を抱き上げ、昇平に

悪いが、華陽の話を先にしたいのだが?

と、頼んだ。

昇平は、

いわよ。

と、答えた。

代宗は、寝台に腰を下ろし、

話してごらん。

と、華陽に問い掛けた。

華陽は、

ち~上、何で、華陽って名前にしたの?

と、聞いた。

代宗は、昇平を見た。

なんで、そんな事を聞くのだ?

今日ね、誦の処で、お勉強してたら、“陽”は、いつわるって意味があって、“陽死”なら、死んだ振り、“陽眠”なら、寝た振り、狸寝入りって、習ったの。

華陽、それを聞くと、嬉しくなかった。

華陽は、華の振り。

そんなの嫌だ。

横で聞いていた昇平が、

父上、賢いのも、困り者ね。

と、口をはさんだ。

代宗は、

本当だ。

華陽は、賢すぎるのだな。

華陽、どうしたいのだ?

“陽”の字を取っ払いたい。

じゃ、陽の代わりは、どうする?

華陽はね、華“か”がいい。

ほう、その後ろの“か”の字は、どんな字を使う。

それが、相談なの。

だって、華陽、まだ小さくて、あまり、字を知らない。

ねぇ、姉上は、どんな字がいいと思う?

急に云われてもね。

命名の云われを聞いている昇平は、代宗を見た。

代宗は、

昔、華陽と云う、女子がいたのだ。

その女子、お嫁に行ったが、子供が生まれなかった。

婚姻相手は、秦の二番目の皇子だったのだが、皇太子が死んで、その相手、安国君が皇太子になったのだ。

そこへ、呂不韋と云う者が、

子供がいないまま、年をとると安国君の寵愛が薄れる時が来ます。

と、云ったのだ。

その時、華陽妃は、最も愛されていたのだ。

華陽妃は、呂不韋の話に、成る程と思った訳だ。

そこで、呂不韋は、趙の人質になっていた安国君の息子、“えい異人”を紹介したのだ。

異人は、華陽妃が、楚の王家の出身なので、“楚”の字を使い、“子楚”と名前を変えていた。

気にいって貰うために。

思い通りに、子楚は、華陽妃の養子になった。

安国君は、孝文王となった。

正妻の養子と云うことで、孝文王の跡を継ぎ、子楚は荘襄王となった。

子楚の子が、始皇帝なのだ。

だから、華陽妃は子供は授からなかったが、次の王の義理の母となり、その次の王の義理の祖母となり、立場は安定して、何も困らずに死んだ、と、父上は思っている。

だから、華陽には、華陽妃にあやかって欲しいと思って、付けた名前なのだ。

ふ~ん。

そうなんだ。

でも、華陽は、嫌なの。

では、もう少し大きくなってから、決めよう。

後で、こっちの方が良かったって、字が出て来るかも知れないから。

分かった。

じゃ、“華か”でお願い。

父上や、姉上、兄上、誦なんか、周りの人だけでも、そう呼んで。

華陽の話は、終わったのね。

違う。

華か!

御免、華か。


じゃ、これからは、昇平の話。

父上、この頃、仏教に熱心だって?

父上は、皇帝だから、あまり、他人は云わないけど、思い出したの。

粛宗様、お祖父様も、同じように幕営の道場で、数百人の僧侶に、朝早くから夜遅くまで、読経をさせていたの。

覚えてる?

早く、長安を取り戻したいと、思っていたからなのね。

張鎬が、宰相になって直ぐに、

国家は、まさに、徳を修めてもって、乱をただし、民を安んずるものです。

未だ、僧侶を養って太平が来たとは、聞いた事がありません。

と、諫めたの。

お祖父様、直ぐに、止めたそうよ。

父上と同じ事を、お祖父様もしていたの。

ても、張鎬の意見を聞いたの。

だから、これだけは、云っておこうと思って。

そなた、張鎬を忘れられないみたいだな。

そうかもね。

郭家に居ても、張鎬のような人はいないと思う。

父上(郭子儀)は、別だけどね。

一言だけ、云っておきたかったの。

じゃあ、父上からも、一言。

我は母上のために、寺を建てて、思ったのだ。

母上は卑しい身分だった。

だから、(息子の)父上に、惨めな思いをさせないために、死んだのだ、と。

母上に、少しでも、報いたい。

父上の、それが気持ちだ。

さあ、帰りなさい。

遅くなった。

曖が、待っている。

華陽の話を、二人で聞けて良かった。

昇平には、いつも、助言を貰っている。

ありがとう。





大暦三年、

春、正月、

一月二十日、

代宗は、完成した“章敬寺”を、訪れた。

大きくて立派に出来ていた。

母親が、寺に相応ふさわしい身分になったようで、嬉しかった。

この寺のために、僧侶、尼僧、合わせて千人を得度させた。

この寺、専任の僧侶と云うことだ。

丹丹が生きていたら、一緒に喜んでくれたのに。

丹丹の位牌も、置こう。

母上が喜ぶ。

その様子を思い浮かべると、代宗は、つい笑った。


建寧王・たんに、斉王を贈った。


二月十八日、

商州の兵馬使・劉洽が、防禦使・ 殷仲卿を殺した。

調べ、劉洽を討ち、平らげた。


二月十九日、

郭子儀が、理由は云わなかったが、軍中で馬を走らせる事を禁じた。

危険な様子を、見たのだろうか?


(郭子儀の妻である)南陽夫人の乳母の子が、罪を犯した。

都虞侯が、罪人である乳母の子を、杖殺した。

郭子儀の子供たちが、都虞侯の横で、泣いて郭子儀に訴えた。

子供たちにとって、兄弟同然の者であったのだろう。

だが、郭子儀は、身分が上だからと云って、無理を通したりはしない。

法に従うのみである。

でないと、悪い例になる。

無理が効くとなると、良いことは何もない。

この位なら、許されるだろう。

と、続く者が現れる。

郭子儀は、叱った。

次の日、都虞侯は、話し相手にため息混じりに云った。

郭子儀の子供たちは、皆、小者だ。

父親の立場として、妻の乳母の子を惜しんだとしたら、褒められないと、した。

死んだ子のために、泣いて訴える。

そんな事をして貰って、乳母は嬉しいだろうか。

すでに子供は、死んだのだ

何が、小者でないのだ!


二月二十五日、

後宮の、華陽の母親である、淑妃・独孤氏を貴妃とした。

華陽の為であった。

華陽の身分を、少しでも、良くしたかったのだ。


三月一日、

日食があった。





夏、

四月四日、

山南西道節度使の張献誠が、病を理由に従兄弟の右羽林将軍・張献恭を身代りとしたいと申し出た。

代宗は、これを許した。


四月二十八日、

西川節度使の崔かんが朝廷に出仕した。


初め、代宗は、宦官を衡山に遣わし、李泌を召した。

李泌がやって来たので、金印紫綬(金の印と、その印の飾りひもを“授”と云う)を、再び、賜った。

金紫(金印紫綬の略)は、高官が使う物で、官に着けと云う暗示である。

かつて、霊武で、粛宗が李泌に金紫を賜ったが、李泌は断り、衡山に帰ったのであった。

代宗は、粛宗が年下の李泌を先生と呼び、同じ部屋で寝台をくっ付けて寝て、馬を並べて話をしたのを知っていた。

初めて会ったのは、粛宗が、皇太子になった時であった。

代宗は、小さかった。

霊武では、張皇后から守ってくれた。

粛宗に忠告してくれたのである。

そして、先を見る人であった。

代宗としては、是非、欲しい人であったのである。

仕事が出来るだけでなく、信頼出来たのである。

だから、李泌の為に、蓬莱殿の側に書斎を作った。

そこまでして、李泌を招いたのである。

五月、暑い盛りである。

代宗は、衣の中の肌着に汗をかいていた。

履き物は、きちんとはかずに、突っ掛けていた。

少しでも、涼もうとしたのであろうか。

給事中、中書舎人から上の位の人の官位を決め、授けた。

そして、国の軍事は大切とばかりに、皆で議論して、地方の守りをする鎮の人の官位も決め、授けた。

魚朝恩に、白花屯の地に李泌の為に別邸を作らせる事にした。

その話し合いでは、李泌は、魚朝恩と昔からの知り合いのようにしていた。

代宗は、李泌を、門下侍郎、同平章事・宰相としたいとした。

李泌は、固辞した。

代宗は、云った。

重要な政務のわずらいで、朝早くから夜遅くまで、顔付き合わせざるを得ない。

本当に、住まいがとても近いのは良い事だ。

何で、必ず、勅書に署名して、しかる後、宰相になると思っているのだ!

端午の日だから、王、公、妃、公主たちがそれぞれ服やら玩具やらを献じてくれている。

代宗は、李泌に云った。

先生は、一人、何で献じる物が無いのですか?

李泌は、云った。

臣は、今、朝廷に居ます。

頭の頭巾から、履き物に至るまで全て、陛下から賜った物です。

余す処の物は、ただ身一つだけです。

何を献じろと云うのですか!

代宗曰く、

朕が、求める物は、正にそれのみ。

李泌曰く、

臣の身は、陛下の物ではありません。

誰が、そうだと云うのですか?

代宗曰く、

先帝は、卿に、宰相になって貰いたかったけれども、卿に屈して、卿を得られなかった。

端午の日、今からは、その身はすでに、朕に献じられています。

まさに、ただ、朕の所有する者。

卿の物では、無いのだ!

李泌曰く、

陛下は、臣をどのように使いたいのですか?

代宗曰く、

朕は、卿に酒や肉を食べて貰いたい。

家には妻を持って貰いたい。

官位を受け、祿を受けて欲しい。

俗人になりなさい。

李泌は、泣いて曰く。

臣は、穀物を絶って二十年以上。

陛下は、何で、その志をやり遂げさせてくれないのですか!

代宗曰く、

何で、また、しつこく泣くのだ!

卿は、今、朝廷の中にいます。

何をして欲しい?

そこで、宦官に、李泌の父親と母親の葬式をするよう命じた。

また、李泌に、盧氏の娘を妻とするようにした。

費用は、天子が皆出した。

そして、光福坊に邸を賜った。

光福坊は、長安城の中央通り東側、朱雀門街に面した、宮城寄りの場所にある。

そして、李泌に邸に数日泊まるように、そして、数日は蓬莱院に泊まるように、命じた。

代宗は、李泌と話をしていて、斉王・たんに厚く褒美を賜りたいとの事に及んだ。

李泌は、兄弟の岐王・範、薛王・業が、玄宗から、太子号を贈られた故事から、代宗に、斉王・たんにも号を請うた。

玄宗の兄弟は、玄宗が一番の長生きで、長兄・憲がそれに続いた。

六人いた兄弟で、一番下の隆悌は、早くに亡くなった。

五人兄弟として、育ったのだ。

次男・きは、開元十二年、亡くなった時、恵荘太子を贈られていた。

三男は玄宗で、

四男・範は、開元十四年、亡くなった時、恵文太子を贈られていた。

五男・業は、開元二十二年、亡くなった時、恵宣太子を贈られていた。

長兄・憲には、開元二十九年、亡くなった時、譲皇帝を贈った。

玄宗は、兄弟、全員に号を贈っていた。

李泌は、その事を云っているのだ。

代宗は、泣いて曰く、

我が弟をかなめとして、霊武の諫めと定めたい。

弟には、中興の功績がある。

岐王、薛王が、弟と比べ、どうして功績があるといえようか!

弟・たんは、真心を尽くし、忠孝であった。

ただ、出鱈目でたらめを云って讒言する者に、殺される処になった。

朕は、必ず、たんを“皇太弟”とする。

今、まさに、帝号をもって貴ばせよう。

我の昔からの志が、叶えられる。

五月十二日、

斉王・李たんに、諡を贈り、“承天皇帝”とした。

そして、興信公主の娘、張氏を“恭順皇后”として、冥婚させた。

五月十七日、

二人を順陵に埋葬した。


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