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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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章敬寺

大暦二年、

春、正月、

一月六日、

代宗は、郭子儀に、周智光を殺すように、密かに詔を下した。

あれだけ、許可を出さなかった代宗だが、魚朝恩が国子監にいて、周智光が張志斌に対して取った行動に対する儒者の批判を聞いたなら、周智光の味方は出来ないと悟ったのを知ったのだ。

又、魚朝恩のかつての部下たちも、魚朝恩が周智光の肩をもっても、誰も同調しないと感じたのだ。

魚朝恩が、禁軍を動かす事はない。

周智光に、手を下す時が来たのだ。

郭子儀は、渭水の上流の軍の大将・渾かんと、李懐光に命じた。

周智光の直属の部下は、その噂を聞いた。

話は、嘘だと思わなかった。

張志斌を殺して食べたのは、悪ふざけにしても、やり過ぎである。

手伝わさせられた方も、嫌でたまらなかった。

皆の心は、すでに離れていた。

一月八日、

周智光の大将である李漢恵が、自ら、同州の帥の部署の代表として、郭子儀に投降した。

一月十一日、

周智光は、れい州刺史に貶められた。

一月十三日、

華州の牙将・姚懐と李延俊が、周智光と二人の子・周元耀、周元幹を殺した。

そして、その三人の首を献上した。

周智光と周元耀、周元幹の首は、通りにさらされた。

罪人の扱いであった。


淮西節度使の李忠臣が、朝廷に入った。

李忠臣、かつて、吐蕃との戦いの折り、直ぐに出兵するようにとの命令に、ぐづつく者たちに、

父母の命が危ない急な時は、救った後に日を選ぶと云うのか!

と、云った武将である。

周智光の治めていた、華州を委され、統治する事になった。

周智光の側近の兵の多くを、調べるために、鞭打った。

周智光の治めていた潼関から赤水までの、二百里の間、財産の蓄えは、ほとんど無かった。

役人たちは、紙の衣を着ていた。

数日、食べていない者もいた。

周智光は、部下の俸給も満足に支払っていなかったのである。

一月十八日、

潼関に、鎮台の兵二千人を置いた。


一月二十一日、

剣南節度使を、分けて、東川節度使、西川節度使とした。

遂州を治めた。






二月二日、

昆明池で踏青をした。

春を感じるために草を踏むのである。

今までしなかったのに、するのは、華陽のためであった。

華陽は、この正月で五才になった。

走っても覚束おぼつかないことはなかった。

だから、城の外に出掛け、自然と親しんでほしかったのである。

誦と過ごし、毎日を楽しんでいた。

顔も日に焼けていた。

公主様には、見えなかった。

池の側にいても、心配はいらなかった。

天真爛漫てんしんらんまんであった。

代宗は、華陽を見るだけで顔がほころぶのであった。

いつも以上に、にこやかであった。


二月六日、

郭子儀が、朝廷に来た。

代宗は、元載、王縉、魚朝恩に、郭子儀のために、それぞれの屋敷で、一会、十万緡の宴をするように、命じた。

代宗は、郭子儀に重く敬意を表した。

常に云った。

大臣は、名前だけではない。

同じ二月六日、

華州牙将・姚懐を感義郡王とした。

李延俊を承化郡王とした。

周智光を斬った功績である。


郭子儀の息子、郭曖は、妻の昇平公主と云い争いをした。

郭曖は、云った。

汝は、父親が天子だからと、りどころにしていないか?

天子とは云え、我が父が天子になる気がないから、そなたの父親は、天子なのだ。

昇平公主は、怒った。

馬車を飛ばして、宮殿に上奏に行った。

代宗は、昇平公主に云った。

これは、汝の知る処ではない。

郭子儀については、誠に、郭曖の云った通りだ。

郭子儀が、天子になりたいとしたら、天下は、すでに、そなたの家の物だろう!

昇平公主を、慰めさとして帰した。

郭子儀は、二人の話を聞き、郭曖を捕らえて、参内して、罪を待った。

代宗は、云った。

田舎のことわざにもあるではないか。

馬鹿でつんぼでなければ、家の主人は務まらない、と。

女子、子どもの閨房で云うことは、何で聞くに足りるのだ!

真面目に、取り合うことは無い。

郭子儀は、家に帰り、息子・郭曖を数十回、杖で打った。


夏、

四月二十一日、

宰相と魚朝恩に、命じて、興唐寺で、吐蕃との同盟の話合いをさせた。


杜鴻漸が、入朝して、

崔かんを、西川節度使の代理としたい。

と、上奏して、請うた。

六月七日、

杜鴻漸は、成都から来て、

世のため人のため、広く尽くしたい。

と、その利害を盛んに述べた。

そして、崔かんの才は、委せるのに耐えられると。

代宗は、崔かんを、間に合せの役目、代理とした。

そして、杜鴻漸を再び、政事に携わるように、長安に留めた。


秋、

七月十九日、

崔かんを、西川節度使とした。

杜濟を、東川節度使とした。

崔かんは、権力をもつ身分の高い人に、賄賂を贈った。

元載は、崔かんの下の弟・寛を御史中丞に、上の弟・審を給事中に抜擢した。



七月二十日、

魚朝恩は、かつて賜った別荘の場所に、“章敬寺”を造りたいと、上奏した。

場所は、長安城東側の春明門の北の通化門の外である。

“章敬”、

代宗の母親のおくりなである。

寺を建てる事によって、“章敬太后”の冥福のりどころとしたい。

と、した。

粛宗が亡くなったのが、宝応元年(762年)、埋葬が広徳元年(763年)、その時、同時に母親が、埋葬されている。

あれから四年、手厚く葬ったとは言え、代宗の気持ちとしては、もっとしてあげたかったと、思っていただろう。

だから、母親の寺を建てるなんて、考えただけで笑みがこぼれる。

魚朝恩は、禁軍と距離を取った事は、まずかったと思っていた。

前のようには、力が使えなくなったのである。

だから、保身のために、代宗のご機嫌を取っているのだ。

代宗の心さえ掴んでいれば、大丈夫。

考えた挙げ句の、寺、建立であった。

代宗は、魚朝恩に感謝したであろう。

母親のための寺、

もし思っても、代宗の口からは、とても云い出せない話だった。

魚朝恩は、寺は壮大で華麗にしたい、とした。

都の材木は使い尽くしたので、足らない分は曲江にある別荘や、華清宮の建物を壊し、材料として使いたいと上奏した。

許されたのだろう。

立派な物が出来る。

代宗の、喜びが伝わる。

費用は、万億銭を超えた。

莫大な金額だ。

抑えた様子は感じられない。

代宗は、出来る限りの事をしたいと思っている。

その気持ちは、伝わる。


衛州の進士・高郢が、代宗に書状を奉った。

略していわく、

先の太后様の聖徳は、一つの寺を輝かし増す必要はありません。

国家の後々のための計画は、どちらかと云えば、百姓をもととすべきです。

人を捨て、寺を取る。

何のための福でしょうか!

また、曰く、

なお、寺に居るべき者がいません。

人が居ないのでは、寺でありません!

また、曰く、

陛下は、まさに、宮室を卑しめています。

夏の開祖・禹の法、

君主を諌める者の合図の太鼓を、朝廷の門の外に置かせ、広く意見を求めて政治を行った。

と、云います。

塔をあがめ、霊廟を受け継ぎ、仏教、儒教に熱心だった梁の蕭衍しょうえんは、いくら仏法に熱心でも、侯景にそむかれ、餓死しました!

又、書状を奉った。

略して、曰く、

昔の聡明な徳の高い君主は、徳を積んで、幸福になります。

財産を使わず幸福を求めます。

徳を納めて、禍を消すのです。

悩みのない人は、禍をはらいます。

今、お寺は、急がせて造っています。

昼夜、休み無しです。

力が及ばない人は連れて行かれ、ムチ打たれます。

痛くて悲しい声は、道路に満ちています。

そこでは、他人ひとに労働をいるような望みが、福なのです。

臣は、恐ろしい。

又、曰く、

陛下は、心の中では、正しい道を巡っています。

外の物に、ささやかな助けを求めています。

左右の者のやり過ぎの企てを、広く知らせて下さい。

皇帝の大きな道義が、傷付きます。

臣は、人知れず、陛下を惜しんでいます!

書状は、送られた。

けれども、返事がないので、皆、寝た。

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