周智光
華原県の県令・顧ようが、代宗に語った。
元載の子・伯和たちが、権力を求めている人から、賄賂を受け取っていると。
十二月十一日、
顧ようは、知り合いの罪に連座して、流刑となり、錦州に流された。
錦州とは、湖南省、揚子江の南の地である。
仕返しされたのである。
安・史の乱の時から、貴族の子弟や国中の秀才の教育機関である、都の国子監の建物が崩れ壊れていた。
そこに、軍の兵士たちが多く仮住まいをしていた。
学長である、祭酒が、代宗に言った。
学校を滅ぼす訳には、いきません。
大暦元年(766年)
春、正月、
一月二十九日、
再び、国子学の学生を募集すると、詔が出された。
一月三十日、
戸部尚書の劉晏を、
都畿道、河南道、淮南道、湖南観察使、荊南節度使、山南東道、の転運使、常平倉、鋳銭、塩鉄使などに任じた。
侍郎の第五きを、
京畿道、関内道、河東道、剣南道、山南西道の転運使などに任じた。
天下の財賦を二つに分けたのである。
競い合って、上手く経営してくれる事を望んだのであろう。
周智光が、華州に来た。
ますます、驕ってわがままであった。
代宗は、呼んだ。
だが、周智光は行かなかった。
代宗は、杜冕に、張献誠を従え、山南に退くように命じた。
周智光は、兵士を遣わし商山で、追ってくるであろう杜冕を待ち伏せしたが、来なくて捕まえられなかった。
代宗が、杜冕を退かせたからである。
代宗は、周智光の事をよく知っていた。
周智光の偉そうな態度は、昵懇の魚朝恩との関係による。
周智光は、代宗と度々会っていた。
魚朝恩が、朝廷に連れて来て、代宗を前にして、周智光を褒めるのである。
おまけに、周智光を推薦するものだから、仕方なく、代宗が出世させた。
代宗には、周智光が杜冕に対して、どういう態度に出るかわかっていたのである。
家族を殺した杜冕に、復讐されると思い、杜冕の命を狙ったのである。
周智光は、自分の罪の重さを知っていた。
兵士たちと、他国に逃げようとした。
子弟たちは、頼りにならない。
兵士たちは、数万人になっていた。
弛い規則の周智光の軍は、兵士に人気があったのであろう。
兵士たちは、関中に留め置かれた船で運ぶ米、二万斛を脅して、奪い取った。
周智光は、そんな兵士たちの心を悦んだ。
ともすれば、米を運ぶ使者を、米を奪う折りに殺したりもした。
米は、藩鎮に貢ぎ物として渡された。
これで、周智光は、安全な場所に部下と共に逃げる事が出来たのである。
ただ、帰順(心を改めて服従する)ではない。
帰順は、その組織の部下になることである。
“長”として、好き勝手している周智光には、とても受け入れられない立場である。
また、周智光と同じように好き勝手する兵士たちは、厳然とした規律の下、管理されている藩鎮の兵士たちに良い影響を与えたとは、思えない。
だから、あれやこれやで、時が経てば、藩鎮を出ていかざるを得ない。
結局、唐に戻ると云うことである。
二月一日、
国子監で、牛や羊の生け贄やその他の供物を供えて、孔子を祀った。
魚朝恩が、六軍の諸将を率いて、経書(四書、五経など)の講義を聞きに来た。
その場の学生たちは、高位高官の子弟らしく、皆、赤紫の衣を着ていた。
魚朝恩は、すでに、身分が高く、世に知られる人であった。
経書を学んで、文章とした。
章句を明らかにし、よく筆を執った。
急に、自ら、
文武の才を兼ね備えていると、云った。
人は、あえて、逆らう者は居なかった。
二月五日、
国子監に、良く治め司る様に命が下された。
元載は、勝手気ままにしていた。
ただ、自分の事を攻撃する上奏をする者が現れることを恐れた。
代宗に、元載は請うた。
百官は、ことごとく論じます。
皆、まず、長官に告げ、長官は宰相に告げ、然る後に、上奏を聞いて下さい。
それを聞いて、代宗は、百官を諭して云った。
この頃、それぞれの役所で上奏する事が多い。
云うことの多くは、人を悪く云って、人を傷付ける事が多いと云う。
だから、長官に委ね、宰相が、先ず、上奏するか、どうかを決める事とする。
と。
その後、すぐに、刑部尚書の顔真卿が、代宗に、書状を提出した。
郎官、御史は、陛下の耳であり、目であります。
今、論じている者は、まず、宰相に告げると云うことを云っています。
これでは、陛下の耳目を、自ら覆うことになります。
陛下は、群臣の偽りに悩んでおいでです。
なんで、その言葉の虚実を明らかにしないのですか!
もし、云った言葉が、虚であれば、罰すべきです。
果たして、真であれば、賞すべきです。
このように務めを評価しなければ、天下は、陛下が聞いたり、見たりするのが、煩わしくて嫌になり、宰相に任せたと思います。
上奏を宰相に託したなら、諫争の道を塞ぎ、論じ合う事を辞めることになります。
臣・顔真卿は、陛下の為に、惜しいと、思います。
続けて、
かつて、太宗様は、“門司式”と云う書の中で、云われました。
門籍(宮中に出入りする者の身分、住所、氏名を記入して宮門に掲出する札)の無い者で、急に上奏したい者がいれば、門を司る者と警護の者が共に案内して上奏をさせるようにし、皆、上奏を妨げないように。
これは、臣下が、君主の耳をふさいで人の善悪を聞かせないのを防ぐためです。
玄宗様の御代、天宝以後、李林甫が、宰相となりました。
人々は皆、李林甫を怖れて、公然と非難する者はいないけれども、知り合いと道路で会うと、互いに目で不満の気持ちを確かめ合ったものです。
皇帝の意向は臣下には及ばず、臣下の気持ちは、皇帝には届かない。
お互い、愚かで道理に暗く、云っていることが、良くわからないようでした。
そして、あわただしい蜀への行幸、禍となりました。
物事が次第に衰えた今日、それでも、寄って来る者がいます。
陛下の夫人は、陛下に、“直言の道”を、大きく開くでしょう。
群臣たちは、猶、敢えて、言い尽くしたりしません。
宰相、大臣が決めたことを抑えさせる事は、なおさらしません。
則ち、陛下が、聞いたり見たりする者は三人に過ぎず、多くても数人のみです。
天下の役人は、この口を閉じて物を云わず沈黙することに、従います。
陛下は、再び、上奏する者を見る事はないでしょう。
だから、天下の為に、論ずる事はありません。
これは、李林甫が、今日、再び現れたと云う事です!
昔、李林甫は、権力をほしいままにしました。
群臣は、宰相から相談される事はなく、すなわち、宰相だけが上奏する者だったのです。
そして、上奏の中で他の事に託して、陰で他人を中傷したのです。
猶、多くの役所の上奏する内容は、皆、先に宰相に報告され、敢えて、明らかにされません。
だから、陛下は、早く目を覚まして下さい。
次第に、孤立します。
後で、悔やむことになり、取り返しがつきません!
元載は、顔真卿の代宗へのこの諫言を聞いて、恨んだ。
そこで、顔真卿の悪口を云い立てた、上奏をした。
二月九日、
顔真卿は、峡州の別駕に貶められた。
大暦十二年(777年)、
元載が殺されるまで、足掛け十二年間、顔真卿は地方勤務をし、長安に帰れなかった。
二月十三日、
代宗は、大理少卿・楊済に、吐蕃との関係を良くするよう務めるように、命じた。
二月二十六日、
杜鴻漸を山南西道、剣南東川、剣南西川の副元帥とし、剣南西川節度使とした。
杜鴻漸は、その立場の力をもって、蜀の乱を平定した。