丹丹の死
遂に、吐蕃に勝った。
郭子儀に、“後は委せる。”との伝言を送り、すぐに、東宮を訪れた。
太子・かつが、
父上、おめでとうございます。
お疲れでしょう。
と、云いながら、現れた。
その横を華陽が、ちょこちょこと駆けて来た。
代宗は、華陽を見ると、自分でも、顔に歓びが満ちてくるのが、分かった。
その場に座り込み、駆ける華陽を受け止めた。
大きくなったんだな。
華陽の勢いで、尻もちを着くところだったよ。
抱いて、立ち上り、太子妃の王氏に、
この度は、華陽のお世話をお願いして、申し訳ありませんでした。
と、お礼を云った。
華陽は、代宗の胸に顔を当て、ひたすら、しがみ付いた。
淋しかった。
もう、一人にしないで。
小さな声で云った。
えっ、よく聞こえない。
すると、
淋しいと、云っているの。
恥ずかしいじゃない。
と、大きな声で云った。
代宗は、
今度は、よく聞こえた。
と、からかった。
代宗は、華陽の拳骨を喰らった。
しばらくして、
ち~上、なんか、良い匂いじゃない。
と、云った。
華陽、御免。
父上は、しばらく、風呂とはご無沙汰だったのだ。
匂って、当たり前。
華陽、今から一緒に、風呂に行くか?
うん。
いいよ。
誦も、一緒に行こう。
ち~上、
また、泳ぎの練習をするか?
誦も、かつが教えた筈だから、華陽と泳ぐか?
華陽は、聞いた。
池に落ちた時、どうやって待つか、知ってる?
知ってるよ。
そんな事。
じゃ、云ってみて。
誦は、
何だったっけ。
父上、誦、忘れたみたい。
誦、父上は、教えてないんだ。
陛下と、一緒に行って、教えて貰いなさい。
陛下、かつも教わっていません。
かつも、来るか?
では、後で、少し覗かせて貰います。
乳母に、華陽の水着の用意を指示して、そのまま、華陽を抱き、誦と並んで、浴堂殿に出かけた。
父上は、体を洗ってから、大浴場に行くから、遊んでいなさい。
華陽に、“良い匂い”と云われるようにするから。
代宗は、呂を見た。
頼んだからなと、目が云った。
呂は、お辞儀をした。
華陽と誦は、お互い水着姿は、初めてで、恥ずかしそうにしていた。
華陽が、目敏く、
さっき、ぱくついていると思ったら、誦のお腹、パンパン。
と、笑った。
誦は、ふざけて、
泳げるんだろう?
と、華陽を浴槽に、突き落とした。
落ちた華陽は、水面で両手をバタバタして、溺れた振りをした。
すぐに、誦は、浴槽に入り、華陽を立たせた。
華陽、泳げるんだよな?
溺れた時は、こうやるの。
華陽は、浮いて見せた。
時々、手足を動かして、沈まないようにするの。
そうしたら、楽で、いつまでも助けを待てる。
浴室に、寝間着姿で入って来ていた、太子・かつが、
華陽、良い事を教えてくれて、ありがとう。
予も、してみよう。
太子・かつも、誦と、浴槽で浮かんでみた。
確かに、楽だな。
誦、良い事を教わったな。
もう、水が怖くない。
に~上、何で、寝間着なの?
水着、持ってないんだ。
この年で泳ぐなんて、思ってもいなかったんだ。
二人の泳ぎの早さ比べだ。
端から端まで、
よ~い、どん。
二人が泳ぎだした。
その時、代宗が浴室に入って来た。
おっ、楽しんでいるな。
太子・かつが云った。
助けを楽に待つ方法など、父上に教わっていません。
依怙贔屓が酷すぎます。
そう云うな。
僕固懐恩が、馬の首を持って河を渡った話から、会話が弾んで、この話をした者がいたのだ。
我が知ったのも、最近なのだ。
わざとじゃないんだ。
それと、そなたに話がある。
実は、妹の丹丹(和政公主)そなたの叔母上が、二年前の吐蕃の長安侵入の時、亡くなったのだ。
どうしてですか?
陛下と共に、逃げればよかったのに。
丹丹は、お腹が大きかったのだ。
臨月で、馬車に乗れなかったのだ。
馬車は、揺れが酷いからな。
それに、あの時、吐蕃の侵入は急で、その心づもりをしてなかったのだ。
明日には、逃げなくてはと云う日、我は、夾城から、丹丹の邸のある、“常楽坊”に行ったのだ。
夾城から出てからは、馬車を使ったがな。
もし、
是非、長安を出たい。
と云ったなら、輿に寝た形ででも、逃がそうと思っていたのだ。
訪れると、亭主の柳潭が、
いけません。
と、部屋に入るのを止めたのだ。
丹丹は、誰も通さないで。
と、我に、頼んだのです。
だから、通せません。
我は、その場で、
そなたは、独りか?
兄は、いないのか?
と、呼び掛けたのだ。
そうしたら、中に入れて貰えた。
次の日、亡くなったそうだ。
腹に子を抱えたままな。
あいつは、三人の子を産んだ。
だが、亭主が、楊一族で、当時羽振りがいいものだから、見栄を張って、一人に付き乳母を二人雇い、授乳させて貰えなかったのだ。
世話は、二人の乳母がするものだから、子どもは、懐かなかった。
まるで、自分の産んだ子でないようであったという。
丹丹は、我と同じ。
自分が育てられたみたいに、我が子を育てたかったのだ。
自分は、幸せであったと思えたからだ。
柳潭は、丹丹と楊一族とのいざこざで丹丹の味方はしなかった。
父親を亡くしていた柳家は、生きるため、楊一族の意向に従わざるを得なかったのだ。
結局、丹丹は、柳潭と別れた。
丹丹は、三人の子どもを棄てたと云う事になった。
だが、馬の風が、丹丹を支えた。
一才の時から、一緒にいて、丹丹と成長し、愚痴を聞かされていた馬だ。
丹丹に譲っていて、良かったよ。
安祿山の謀反のとばっちりで、楊一族は殺された。
軛から放たれた柳潭は、丹丹を頼った。
子の一人、真ん中の子、柳晟だけは助かっていたからだ。
その柳晟を守るために、二人は、結びついたのだ。
腹の子は、手離した子の代わりに、死んでも一緒にいるの。
お腹の中なら、誰も引き離せない。
ってな。
そして、柳晟の事を頼まれた。
あの子には、後ろ楯がいない。
父方の伝なら、ない方がいいと思える伝だ。
丹丹の伝しかないのだ。
そなたと華陽は、年の差、二十一才だ。
柳晟は、二人の真ん中の年だ。
そなたの、十一才年下。
華陽の、十才年上。
柳晟は、父親に死なれたら、我しか頼る者はいないのだ。
柳晟は、そなたの従兄弟だ。
我が死んだら、そなたが柳晟を後見してくれ。
帝位争いに、参加する資格のない身内だ。
その点、安心して相談できる。
そなたを裏切るような事はしないだろう。
柳晟にしても、かつだけが、頼れる身内と云える。
柳晟の事を、そなたに頼みたい。
華陽の他に、柳晟だけだ。
頼みたいのは。
この前の宴で、華陽がそなたに、詩を詠んだな。
独孤氏の顔を見ていたのだが、そなたのことを、“次の世の種”だと、華陽が云うのを聞いて、怒り心頭のように見えたぞ。
兄の、迥に贈ってくれたらいいのにって、華陽の事をこの馬鹿って。忌々しく思っているようだった。
華陽のあの言葉で、そなたの地位は、より固まったな。
だから靖羅は、生きてる間は偉くなっても、貴妃止りだ。
高い地位につけたなら、そなたの立場を奪いに来るだろう。
父上の妃、張氏のごとくな。
靖羅は、独孤氏を後ろ楯にして、力を振うだろう。
そなたのためにも、そんな事はさせない。
でないと、珠珠に会わす顔がない。
あっ、急がないが、そなたに、死ぬ前に、頼みたい事がある。
珠珠のためだ。
嫌な事だが、どうしてもして欲しい。
珠珠が、絶対、喜ぶ事だ。
そなたも、そろそろ、手を汚す事をしなければな。
珠珠のためなら、我は出来る。
今回、華陽のために手を汚した。
そなたも、今に、我の気持ちが分かる。
やはり、事情を云っておいた方がいいな。
いずれ、そなたも、悩むだろう。
我の兄弟の寧国公主、回鶻の可汗に嫁いだ。
一年もたたずして、可汗が亡くなり、殉葬(死者のお供をして、その墓に生きたまま葬られる事)を迫られたそうだ。
まあ、うまく断ったら、葬式の時の向こうの儀礼で、自分で顔に七筋の刀傷をつけさせられた。
若い女子だ。
恥じて、顔を背けていた。
かつ、そなた、蕃族が公主を娶りたいと、使いをよこしたらどうする?
玄宗様は、嫁にやった娘の子を公主に封じて、嫁がせていた。
それでも、唐と婚姻先の関係がこじれれば、殺されたりしていた。
契丹や奚の場合だ。
何度もあった。
そして、また、公主の降嫁を望むのだ。
持参金目当てと、しか思えない。
それと、人質の一面もあるがな。
今回、我は、華陽を手離さないために、僕固懐恩の娘を宮中に入れて、公主の如く育てている。
もしもの時の為の、身代わりだ。
そなたも、何処かの蕃族が、公主を娶りたいと来た時の事を、事前に考えていた方が良いぞ。
僕固懐恩の娘の事は、口外しないように。
華陽の耳に入りでもしたら、正論を吐いて、邪魔をするかも知れない。
ましてや、自分の身代わりと知ったら、面倒な事になる。
そなたも、いずれ身に降りかかる事だ。
心がまえをしておいた方がいいぞ。
それと、妃の王氏に感謝を伝えておいてくれ。
七歩の詩を華陽が詠んだ事を、靖羅は怒っている。
だから、母親には、預けられなかったのだ。
多分、華陽を、あちらに預けたら、虐められただろう。
そこいらの事情は上手く話しておいてくれ。
これからの事もあるからな。
丹丹、吐蕃が長安に侵入する前に、遺体を隠したのだが、どこに隠したと思う?
春明門を出た処の北、我の母上、そなたの祖母上の遺体を葬っていた墓だ。
あそこに、(珠珠が、棺が欲しいと云っていたので)新しい立派な棺を用意したのがあったので、それを使ったのだ。
他人の墓所を使うのは、嫌だが、丹丹にとっても母上の墓所だ。
気持ち良く利用させてもらったよ。
身内の少ない家族だ。
落ち着いてから、ささやかな式をしたそうだ。
墓は、皇族の女子が多く葬られている場所へ決めた。
お互い、裸に近い格好で心境を語れた。
今日は、良かった。
そなた、華陽をどう思う?
年が離れていると云っても、兄弟だ。
華陽の事、頼んだぞ。
良くしてくれ。
お願いする。
あっ、そなたに渡す物があった。
代宗は、小さな金の鈴を、かつの手のひらに乗せた。
珠珠とお揃いの物だ。
昇平は、もう、母上から、貰っている。
本来、この鈴は、珠珠と丹丹のお揃いだったのだ。
それを私が、真似て買ったのだ。
だから、同じ物が、三つある。
丹丹の物は、柳晟が貰っている。
そなたの母上と、丹丹の絆だ。
だから、柳晟とは仲良くな。
頼んだからな。
今日は、誦がいるので、華陽と二人で、石取りをさせようと思ってな。
そなたと昇平は、石取りが好きだったな。
はい、勝ち負けがはっきり分かるので、向きになってしたものです。
華陽、誦、おいで。
ここに、黒い石がある。
この石を投げるから、先に潜って取った者が、勝ちだからな。
投げるぞ。
ぽしゃ~ん、
華陽と誦は、潜ろうとした。
だが、二人共、上手く潜れない。
水の底に向かって、泳ぐのだ。
出来るまでしてみたらいい。
本当だ。
底に向かって泳いだら、二人で石を巡って、押したりして、取り合いっこになっている。
水の中だ。
力を込めても、押せないし、当たっても痛くない。
さあ、どっちが取った?
誦か。
ち~上、良く見えない。
手探りで、有ったと思ったら、横から取られた。
それは、誦のセリフ。
こら、こら、たんびたんびで、争わない。
もう一回、するか?
する、する。
投げて!
じゃ、少し、遠くに投げるからな。
ぼしゃ~ん。
そこまで、泳いで行ったらいい。
石一個で、よく、遊ぶ事だ。
やっぱり、誦か。
上手いな。
もう、ち~上ったら、
華陽も、小さいけど上手いよ。
本当だな。
かつ、昇との昔、思い出さないか?
あんな風でしたね。
もう、そろそろ帰るとするか。
もっと、する~。
後、一回な。
かつ、投げてやれ。
ほうら、行くぞ。
ぽしゃ~ん。
帰ったら、爆睡ですよ。
父上、お疲れですから。
ち~上、
今日は、帰るけど、明日も来たい。
石取りって、楽しい。
ああ、明日も来よう。
誦は、どうする?
当たり前で、来ます。
華陽、おまえ、女子なのに、よく張り合うな。
だって、華陽、誦の叔母上だもん。
甥っ子には、勝たなきゃ。
ねぇ、ち~上。