回鶻への説得
九月十七日から、九月二十五日まで、大雨が止まなかった。
だから、蕃族は進めなかった。
吐蕃は醴泉を攻めようと、兵士を移した。
党項は、白水の西をスレスレに通り、東から蒲津に侵入した。
九月二十八日、
吐蕃が、大ぜいの男女数万人を奪い去った。
過ぎた処の家屋は燃やした。
実った穀物の苗を全て、踏み躙った。
同華節度使の周智光は、兵を引き、迎え撃った。
澄城の北で吐蕃を破り、遂に、ふ州の北に着いた。
周智光は、元々、杜冕と仲が良くなかった。
遂に、ふ州の刺使、張麟を殺した。
杜冕の家族を八十一人、生き埋めにした。
坊州の役所と官舎、三千余りを焼いた。
冬、
十月一日、
再び、資聖寺で仁王経の講経が行われた。
吐蕃が退いていたひん州で、回鶻は、偶然、吐蕃に出会った。
再び、一緒に、侵入する事にした。
十月三日、
奉天に着いた。
十月五日、
党項が、同州の役所を燃やした。
民は、住居から、すでに去っていた。
十月八日、
回鶻、吐蕃、合わせた兵が、けい陽の城を囲んだ。
郭子儀は、諸将に厳しく守備に徹して、戦わないように命じた。
日が暮れた。
暗がりの中を、二人の蕃族が北原の駐屯地に帰って行った。
十月九日、
再び、蕃族の軍は、城下に着いた。
この時、回鶻と吐蕃は、僕固懐恩の死を知った。
郭子儀の陣営から去った、二人の蕃族からの情報であろう。
二つの部族は、僕固懐恩のポスト“長”を争った。
お互い、もう、仲が良くなかった。
陣営を分けて、別の地に住むことにした。
郭子儀は、回鶻と吐蕃の仲違いを知った。
回鶻は、城の西に居た。
郭子儀は、精鋭の李光さん等を使って、共に、吐蕃を撃たないかと、説得に行かせた。
回鶻は、信じなかった。
曰く、
郭公は、本当にここに居るのか?
汝は、我の耳を欺いていないか。
もし、ここに居たのなら、会えるのか?
李光さんは、帰って報告した。
郭子儀曰く、
今、我らの兵士は少ない。
戦っても敵にもならない。
負けるだろう。
力を尽くして、難関に打ち勝とう。
昔、回鶻と厚い約束をした。
もし、身を挺して行って説得したなら、戦わずして降せる。
諸将たちは、精鋭の騎馬兵五百騎を護衛の為に選ぶように、請うた。
郭子儀曰く、
妥当な数と云える。
だが、適度な数は、かえって害になる。
疑いを招くような事は避けるべきである。
息子の郭晞は、馬を押さえて、諫言して云った。
あいつらは、虎や狼です。
大人(敬称)、唐の国の元帥、
なんで、身をもって蕃族の餌食になるのですか。
郭子儀曰く、
今のこの戦いで、すなわち、父と子が共に死んだら、国家は、危ない。
行って、誠を尽くして話をしたなら、運好く、助かるかもしれない。
すなわち、天下は、福なのだ!
身は尽きても、家門は無事だ。
郭晞の手を、馬から放すよう、鞭打ち、云った。
去れ!
遂に、数騎が門を開け、出て行った。
回鶻に警戒心を抱かせては、いけない。
郭子儀は、死の覚悟を示す数騎のみを選んだのだ。
回鶻の者が、呼んで伝えた。
令公が来た!
回鶻は、大いに驚いた。
そこの大帥の胡祿都督の薬渴羅(可汗の弟)が、弓を取り矢をつがえて、陣営の前に立った。
郭子儀は、冑を脱ぎ、鎧を解き、槍を投げ捨て、進んだ。
回鶻の諸酋長たちは、互いに顔を見合せ、
郭子儀だ。
と云った。
皆、馬から降りて、並んで拝礼をした。
郭子儀も、また、馬から降りた。
薬渴羅の前に行き、手を取った。
謙遜して曰く、
汝、回鶻は唐において大功がある。
唐の報告によると、汝の行いは帳簿にはないとの事だ。
何で、約束に反して、我が地に深く入り込み、幾県にも近づいたのだ。
前の功績を棄て、怨みに凝り固まり、恩義に背き、叛臣を助けるとは、
何と愚かなのだ!
おまけに、僕固懐恩は、主君に叛き、母親を棄てた。
汝の国には、一体、何があるのか!
今、我は、身を挺して、やって来た。
聴く処によると、汝は、我を捉えて殺すと云う。
我の部下である将士たちは、戦いで必ず、汝を死に至らしめるであろう。
薬渴羅曰く、
僕固懐恩は、我を欺いた。
天可汗は、崩御されたと云った。
令公も、また、亡くなられたと。
中国に今、主はいないと。
だから、我は、あえて吐蕃と、一緒に来たのだ。
今は、天可汗が都においでになると知った。
令公は、再び、兵士を統べて、ここに居る。
また、僕固懐恩は、天の殺す処となった。
我は、仲間として、令公と共に戦うのだ!
そこで、郭子儀は、説いた。
吐蕃は、道徳に背く行為をする。
我が国の乱に乗じて、回鶻と同じように、かつて、公主と婚姻をしながら(文成公主、金城公主など)、唐とは、親戚関係でありながら、そんな事は考えずに、我が田舎を食い荒し、我が農作地を勝手に燃やす。
そこで奪った財産は、持ちかえれず、牛や馬、その他の家畜の数百里続く長い列。
一面に広がる野原。
この天を、汝に賜ろう。
総ての軍とは、引き続き、上手くやろう。
敵を破り富を取れ、ここにおいて、利益をよく考えろ!
失う物は無い。
薬渴羅曰く、
我は、僕固懐恩の誤る処を為した。
郭公の深い誠には負けた。
今、公のために、力を尽くしたいと、お願いする。
吐蕃を撃っても、感謝に過ぎない。
しかし、僕固懐恩の子供は、可敦の兄弟である。
放って置いて、殺さないでくれ。
郭子儀は、これを認めた。
回鶻の周りで見ていた、見物人たちは、これで、両翼(軍の両側に張り出た陣形)が出来たと云った。
少し前、郭子儀の部下たちは、前に進んだ。
郭子儀は、下がるように、手で指図した。
そこで、酒を取り、酋長たちと共に飲んだ。
薬渴羅が、郭子儀に先に酒を取らせ、誓わせた。
郭子儀は、酒を地に注いで、神を祭った。
そして云った。
大唐天子、万歳!
回鶻可汗、また、万歳!
両国将軍相、また、万歳!
約束に反した者、
皆と一緒に前に、落ちた者、
家族が、途絶えた者、
回されていた盃が、薬渴羅のところに来た。
また、地に酒を注いで云った。
令公のように、誓う!
ここにおいて、諸酋長たちは、皆、大喜びした。
そして、云った。
今日、二人の巫(占い師)が従軍しました。
巫の云う事には、このような行いは甚だ安らかだとの事です。
唐は戦わず、見れば、一人の大人が帰る。
おもいっきりが良い。
郭子儀は、陣営に帰ると、けい城にあった総ての綵三千匹を回鶻に贈った。
酋長は、分けて、巫に褒美とした。
郭子儀は、ついに約束を決めて、帰ったのだ。
吐蕃は、郭子儀が回鶻を訪れ、一緒に酒を飲んだと、聞いた。
すぐに、兵を引いて、逃げ去った。
回鶻は、その酋長、石野那たち六人を、天子に会わせるように入宮させた。
薬渴羅は、帥となって吐蕃を追った。
郭子儀は、白元光を帥として、精鋭の騎兵を薬渴羅と共に行動させた。
十月十五日、
霊台の西原で戦った。
大破した。
吐蕃の兵士、合わせて一万人程を殺した。
奪われた兵士、女子、四千人を得た。
十月十八日、
けい州の東で、また、破った。
十月十九日、
僕固懐恩の将軍・張休蔵たちが、投降した。
十月二十三日、
代宗は、
親征を辞めた。
と、詔をした。
都では、戒厳令が解かれた。
皇帝が親征(皇帝が戦いを指揮)する。
それほど、今回の戦は、危なかったのだ。
かつて、粛宗は、せん西節度使の郭英乂に神策軍を賜った。
内侍の魚朝恩に神策軍を監督させるようにした。
郭英乂は、僕射となり、宮中で仕えることになった。
魚朝恩が、神策軍を専ら率いる事になった。
代宗が、せん州に行幸するに及び(吐蕃が長安に侵入したので)、魚朝恩は、せん州にいた兵士と神策軍とで華州で出迎え、付き従った。
その時、兵士は、すべて“神策軍”とした。
代宗は、その軍営に行幸(留まった)した。
都が平定されるに及び、魚朝恩は、せん州から、遂に、宮廷に帰った。
自ら、将軍とした。
しかし、尚、北軍と同類ではなかった。
ここに至り、魚朝恩の神策軍は、代宗に従い、禁苑に駐屯することになった。
その勢いは、代宗の心を得ているので、何もしなくても盛んであった。
禁軍では、宮殿の警護に右(右廂)と左(左廂)に担当を分ける。
神策軍は、北軍の右廂になった。
僕固懐恩の強い将軍、僕固名臣、李建忠たちは、皆、唐の処分を怖れて蕃族に逃げ込んでいた。
郭子儀は、その者たちを呼ぶように、代宗に請うた。。
僕固名臣は、僕固懐恩の甥で、その時、回鶻の陣営に居た。
代宗は、詔で、
安・史の乱で功績のあった、かつての将軍たち皆も合わせて、その罪を赦す。
その詔は、命により、回鶻に送られた
十月二十四日、
僕固名臣は、千騎以上を率いて長安を訪れ、投降した。
郭子儀は、開府儀同三司の慕容休を使って、党項の帥、鄭庭、かく徳たちに、諭す書状を送らせた。
書状を貰った者たちは、鳳翔を訪れ投降した。
十月二十六日、
周智光が、宮殿を訪れ、戦利品を献上した。
再び、同華節度使に帰り、留まった。
周智光は、人を殺した罪(ふ州の刺史・張麟と杜冕の家族)を負っており、未だ、取り調べがされていなかった。
代宗は、悔い改めるように、すでに伝えた。
十月二十七日、
回鶻の胡祿都督たち、二百人以上の人が参内して謁見した。
前後して、絵のような錦十万匹を賜った。
倉庫は空になり、錦は尽きた。
百官の俸祿分を贈ったのだ。
錦は、河北地方の特産品である。
藩鎮の統治している場所である。
唐は、以降、絹を手に入れるのに苦労することになる。
だが、出費は痛いが、生き残れたのだ。