李光弼の死
夏、
五月十七日、
初めて、五紀暦が使われた。
五月二十四日、
礼部侍郎の揚かんが、上奏した。
歳貢、(民が、毎年、天子に産物を献上する事)
孝弟力田、(漢の文帝が設けた科挙の目)
孝・弟は、淑行なる者
力田は、勤労なる者
これに挙げられた者は力役を免ぜられたが、三者には、少し差があった。
孝には、帛五匹
弟・力田には、帛三匹を賜った。
それらは、現実の状態では有りません。
それと、童子科は、思いがけない身分不相応な幸と云われています。
当たり外れがあるようです。
すべて、罷める事にした。
郭子儀は、安祿山・史思明が洛陽に拠点を置いたので、諸道のその重要な地点に節度使を置いたと、した。
今は平定され、有るのは、大きなごまかしのみだ。
そこにいる兵士たちは、百姓を食いものにしていた。
河中節度使からの始まりで、辞めたいと上奏で請うていた。
六月、
河中節度使と耀徳軍は罷めるようにとの命が下った。
郭子儀も、再び、関内副元帥を辞めたいと、請うた。
代宗は、許さなかった。
最近、代宗は、前のように、華陽と朝の散歩をするようになった。
去年は、抱っこしての独り言の散歩だったが、今は、楽しいお喋り付きの散歩である。
部屋には金魚がいたが、華陽は、やっぱり池に立ち寄り中の魚を覗いた。
ち~、
金魚さんのウンチ、白いんだ。
えっ!
代宗は、驚いた。
器の金魚さん、長い間、狭い器にいるから、池の魚と交換しようか?
いいかな?
いいよ。
呂に、云っておこう。
今度は、どんな、お魚さんにしようか?
ち~、
華陽、お魚さんの顔が見たい。
上からばっかりじゃ、詰まらない。
顔を見るのは、餌を食べる時だけ。
それも、みんなで餌の取りっこで、水が動いて、良く見えない。
そうだね。
父上も、金魚さんの顔なんて見たことないな。
父上も、華陽と同じようにで見てみたい。
どうやったら、見れるかな?
さあ、もう帰ろう。
父上は、朝議があるから。
分かった。
急いだ代宗は、華陽を抱いた。
去年は、散歩に行くと、華陽がおしっこをして、大慌てで、華陽を捧げもって帰ったものだ。
聞いた華陽は、
又、ちょの話、
ち~、嫌い。
御免、御免、
もう云わない。
代宗は、幸せだった。
僕固懐恩は、霊武に着いた。
兵士は、集まったり、散ったりしていたが、又、振るって来たようだ。
代宗は、元々、僕固懐恩の家を厚く慈しんだ。
六月十七日、
代宗は、詔を下した。
その中で称えた。
立派な功績のある者は、帝室、及び、天下に置いても、世の人に知らせるべきである。
疑いの発端は、多くの小人から起きていて、その真心を明かにしようと思う。
僕固懐恩には、元々、謀反の心はないのだ。
君主と臣下の間の偽りのない心、義理は、かつてのようである。
ただ、河北地方は、すでに平定され、朔方節度使には所属していない。
河北副元帥、朔方節度使などの職は、解くのがよい。
その官職、太保兼中書令なのは、大寧郡王だからだ。
ただ、まさに宮殿に、詣でるべきである。
疑う事、なかれ。
だが、僕固懐恩は、遂に、従わなかった。
秋、
七月五日、
天下の“青苗銭”が、文武百官に俸銭として支給されることが決まった。
玄宗の云う、新しい形の税制である。
前年、飢饉で米が高騰した。
だが、この年、永泰元年(765年)五月、京兆府で麦が大豊作となった。
京兆尹の第五きが、上奏して、十畝ごとに一畝、課税して、古の十分の一税にならいたいとした。
代宗は、これを許した。
代宗は、安・史の乱で、その期間、官僚たちの奉銭がきちんと支払われていなかったからと、対策を議論するように命じた。
ある者が、苗が生えている畝に課税すればよいのではと提案した。
そこで、役人を各地に派遣して、全国土に青苗銭を課税して、官吏の給料に当てる事にしたのである。
収穫されてない、まだ、青い苗に課税する事から、“青苗銭”と、命名されたのである。
次の年、永泰二年五月、銭四百九十万貫を得る事になった。
これより、毎年、青苗銭を課税することになったのである。
太尉兼寺中であり、河南副元帥であり、臨淮武穆王の李光弼は、軍を厳しく整えて治めていた。
将軍たちは、あえて仰ぎ見ることさえ出来なかった。
謀り事が決まると、その後の戦いは、少しの兵士で相手を制圧することができた。
李光弼の名は、郭子儀と等しいとされた。
徐州にいて、多くの兵士を抱え、朝廷に参内しなかった。
けれでも、将軍の田神功たちは、もう、李光弼の命令を受けても畏れなかった。
李光弼は、恥じて怨み、病気になった。
七月十四日、
李光弼は、亡くなった。
李光弼は、宮中の謀り事を恐れたのである。
だから、陝州にも、ぐずぐずして行かなかったのである。
魚朝恩がいるからである。
かつて、郭子儀に代わり副元帥になった時、上役に観軍容使でなく、元帥を希望した。
観軍容使の魚朝恩は、その時の戦に役職がなかった。
当然、恨んだであろう。
前回は、元帥に代わる観軍容使、軍の帥であったからだ。
だから、李光弼の幕営に嘘の情報を流し、嫌がらせをした。
嘘の情報で、李光弼の軍が浮き足立つのを見て、陰で嗤ったのであろう。
かつては、その程度の報復で済んだ。
だが、今の魚朝恩は、代宗の寵愛を受け、軍の頂点に立つ。
地方に居れば、まだ、落ち度は見つけにくい。
だが、長安に居れば、身に覚えがない、落ち度があげつらわれるだろう。
身を守るため、地方に居るのである。
それと、太原の河東節度使の王承業(あの顔杲卿の功績を奪った男)が兵士の管理が出来ていないと、宦官の崔衆が調べに来た。
崔衆は、王承業を斬った。
だが崔衆も、来た目的である兵士の交代をしなかった。
だから、李光弼は、崔衆を斬った。
思えば、色々ある。
魚朝恩にとって、李光弼は、気にいらない人間であろう。
李光弼だけでなく、手柄を立てた人ほど、来てんの二の舞いを踏むのを避けようとした。
宦官の嫉妬は怖い。
戦で死ぬのは、納得出来る。
だが、罪を着せられ、謀反を調べると云う名目で、拷問を受け、廃人になるか、殺される。
謀反の疑いとは、もう、その時点で、死を意味するのである。
無実の罪で、誅殺されされるのは、耐えられ無い。
罪人として、死ぬのである。
だから、僕固懐恩も宮殿には行きたがらない。
程元振で、内官の怖さを思い知ったのである。
李光弼は、自分は標的にされるであろうと思っている。
だから、怖くて、宮中などとても行けないのである。
部下の将軍たちは、あの李光弼が恐れているのを知ったのである。
戦は、終わった。
だのに、李光弼は宦官を怖がっている。
宦官なぞを。
そんな李光弼など、もう怖くない。
だから、部下たちは命令に従わなくなったのである。
八月一日、
李光弼に代わり、王ふが、都統河南、淮西、山南東道の諸行営を引き継いだ。




