僕固ちょうの死
僕固懐恩は、既に、朝廷に用いられなくなっていた。
代宗の使い、裴遵慶が参内するようにとの詔を持って来た時、来てんのように殺されるのを畏れた部下に、僕固懐恩は参内を止められた。
部下の言葉に納得した僕固懐恩は、参内を断った。
だから、再び、代宗の意向に背いたとされたのである。
それ以後、用いられなくなっていたのである。
遂に、河東節度使の都知兵馬使・李竭誠と太原(河東節度使)を奪うことを秘かに図った。
河東節度使の辛雲京には、二人の計画が分かったので、李竭誠を殺した。
そして、城に色々な仕掛けを設けた。
僕固懐恩は、その子・僕固ちょうを使い、将兵たちで河東節度使を攻めさせた。
辛雲京が戦いに出て来た。
僕固ちょうは、大敗をして帰ってきた。
遂に、兵を退き、楡次を兵で囲ませた。
代宗は、郭子儀に云った。
僕固懐恩、ちょう、父子は朕に、深く叛いた。
聞けば、朔方節度使の将士たちは、干魃で枯れている作物が雨を望んでいるように、郭公を想っているとか。
郭公は、朕のために、河東節度使をなだめ収めてくれないか。
汾州にいる河東節度使の軍は前と変わらず、郭公を必ず慕っているだろう。
一月二十日、
郭子儀を関内、河東副元帥、河中節度使等に、任命した。
僕固懐恩の将士たちは、この人事を聞いて、皆、云った。
我らは、僕固懐恩に従ったから、義理を欠いた。
何の面目があって、汾陽公(郭子儀)と会えるのか!
一月二十五日、
劉晏を太子賓客とし、李けんをせん事とし、共に政事を辞めさせた。
劉晏は、罪を得た程元振と仲が良く、李けんは功績はあったが、宦官ゆえか、嫉み、妬みが激しかった。
だから、劉晏と共に罷免したのだ。
そこで、右散騎常侍の王縉を黄門侍郎とした。
太常卿・杜鴻漸を兵部侍郎とし、二人共、同平章事とした。
宰相である。
一月二十九日、
郭子儀を朔方節度大使とした。
僕固懐恩は、朔方節度使だったので、その上の役職・節度大使としたのである。
二月、
郭子儀は、河中節度使に着いた。
雲南地方の子弟、一万人もの兵士が河中節度使を守っていた。
将軍たちは欲深く、兵士たちは乱暴であった。
節度使の禍となっていた。
郭子儀は、罪があると思える十四人を斬り、三十人を杖刑とした。
街の中は、遂に、安らいだ。
二月五日、
代宗は、太清宮に朝献した。
二月六日、
代宗は、太廟に御詣りした。
二月七日、
代宗は、昊天上帝を圜丘で祀った。
僕固ちょうは、楡次を囲んでいた。
十日以上経っても、落とせなかった。
使いを遣わし、祈県の兵士を急いで出発するようにさせた。
李光逸は、ありったけの人を出した。
兵士たちは、まだ食事をしていなかった。
前に進めなかった。
十将の内の、白玉と焦暉は、(前に進めない者は、どうしても遅れるので)その後ろの者を、射ると音が出る鏑矢で射た。
軍士が云った。
将軍は、何で人を射るのですか?
白玉は、
今、謀反を起こす人に従えば、最後は、死を免れない。
死は、一つである。
射たといって、たかが傷だ。
白玉と焦暉は、僕固ちょうを殺したいと思っていた。
だから、先に兵士たちを怒らせるようにしたのであった。
楡次に着いた。
僕固ちょうは、遅いと責めた。
蕃人は云った。
我は、馬にのって来たました。
漢人の兵士だけは、乗れませんでした。
蕃人と漢人の差別をしていたのである。
僕固ちょうは、漢人の兵士を鞭打った。
兵士たちは、皆、怨み、怒った。
そして、云った。
節度使は、蕃人の仲間だ。
その夕方、焦暉と白玉は、兵士を指揮して僕固ちょうを殺した。
僕固懐恩は、息子の死を聞いた。
部屋に入り、母親に告げた。
ちょうが死んだ。
母親は、云った。
我は話す。
そなた、謀反を起こす事はしないように。
国は、待っている。
そなたが、薄情でなくなるのを。
今、兵士の心は、すでに変わった。
禍は、必ず、我にも及ぶ。
大将であるそなたは、どうするのか?
僕固懐恩は、答えられなかった。
再び、拝礼をして出ていった。
母親は、刀を持って追いかけて行った。
そして云った。
我は、国のためにこの賊を殺す。
その心をもって、三軍に謝る。
僕固懐恩は、全力で走り、やっと逃れた。
ここには、居られない。
遂に、側近三百騎で、黄河を渡り、北に走った。
朔方節度使の将軍・渾釋之は、霊州を守っていた。
僕固懐恩の召し文が届いた。
全軍は、帰り鎮まれとの事であった。
渾釋之は、云った。
おかしい。
これでは、必ず、兵士たちが駄目になる。
まさに、拒もうとしたら、甥である張韶が云った。
僕固懐恩は、急に気が変わって、計画を改めたのです。
兵士たちが、帰って鎮まるのは、何で、納得が出きないのですか!
渾釋之は疑い、決められなかった。
僕固懐恩は、早く動いた。
まず、物見の者が着いた。
渾釋之は、納得出来なかった。
張韶は、その謀り事を僕固懐恩に告げた。
僕固懐恩は、張韶を間者とした。
張韶を長として、渾釋之を殺す事をその軍に任せた。
張韶は、云った。
渾釋之は、叔父です。
彼は、負けます。
忠義の心が有るのは、我です!
事が終ったある日、張韶は、杖刑を受けた。
脛が折れた。
彌峨城に置いておかれ、そこで死んだ。
都虞候の張維がくは、沁州にいた。
僕固懐恩が去ったのを聞いた。
駅の馬を乗り継ぎ、汾州に着いた。
そこの兵士たちを、宥めた。
焦暉、白玉を殺した。
その(僕固ちょうを殺した)功績を盗もうとしたのだ。
だから、郭子儀に、その旨(我、張維がくが僕固ちょうを殺した事)を報告した。
郭子儀は、牙官(武官)・盧諒を汾州に行かせた。
張維がくは、盧諒に賄賂を贈り、自分の言葉を実際に云わせた。
郭子儀は報告通り、
張維がくが、僕固ちょうを殺しました。
と、上奏した。
後で、郭子儀は、盧諒が、張維がくから賄賂を受け取ったと、聞いた。
周りの人々は、どちらが罪に問われるのか話題になった。
郭子儀は、賄賂を受け取った盧諒の罪を問うた。
盧諒を棒殺にした。
僕固ちょうの首が、宮殿に届いた。
群臣は、お祝いの為、参内した。
代宗は、窶れた様子で、喜ばなかった。
そして、云った。
朕は、信じない。
人もだ。
勲臣と云われるまでになった者が、転がり落ちる。
深く信じ、用いた事を恥じる。
また、何がめでたい。
功績を盗もうとして、人、二人を殺した、張維がくの話を聞いた時、あの者・僕固懐恩には、そんな欲がなかったと思ってしまった。
功績をあげたので、隴右節度使にした。
だが、いつまで経っても赴任しなかった。
郭子儀の側に居たかったようだ。
だから、朔方副節度使にした。
その職に満足していたようであった。
郭子儀にしても、引退する時、自分の役職全てをあの者に譲った。
信頼していたのだ。
朕には、人を見る目が無いのか?
命令により、僕固懐恩の母親が輦に乗り、長安に着いた。
輦とは、手で引いたりする車のようだ。
だが、汾州から連れてきたのなら、長安近くまでは、馬車で来たのであろう。
僕固懐恩は、今は、謀反人である。
人質として、母親を連れて来たのであろうか。
輦なら、人目に付きやすく、見せしめの効果もある。
僕固懐恩を叱り、道理を説いた母親である。
長安に来たと云うことは、自分を犠牲にする事を当然、考えていたであろう。
部族の将来を考えての事かも知れない。
待遇は、厚遇されたと云う。
一と月余りて、天寿を全うしたと云う。
礼儀に厚い葬式がなされた。
功臣は、皆、感嘆したと云う。
いずれ、息子・僕固懐恩が母親に会いに来るだろうと、代宗は、待っているのかも知れない。