陝州から長安へ
十二月十九日、
代宗、華陽、乳母が乗った車駕が陝州を出発した。
陝州にきてから、靖羅に母乳は求めなかった。
離乳食を始めたからと、云うのが、口実であった。
部屋には、来ないように。
と、伝えた。
ただ、代宗は、乳母に確かめた。
密命は、やり遂げたか?
と。
他の方なら、気にならないでしょうが、多分、あの方なら気にするはずです。
完璧を求める方ですから。
それでいい。
ご苦労様。
母上を貶められた気がして、我慢が出来なかったのだ。
朕の命、驚いただろう。
もう、忘れるように。
下がらせた、二人の乳母の後ろ姿を見ながら、
華陽、そなたの顔については、もう何も云わせないから。
とっちめて、やった。
と、一人言を云った。
あいつは、松が云ったように、見た目の完璧さを求める。
多分、衣を着替える度に姿を鏡に写し、ため息をついている事だろう。
今度、華陽の顔の事で何か云ったなら、
そうだな、靖羅は、全てが完璧だからそう云えるのだ。
と、云ってやろう。
あいつ、気が回らないから、まだ、上から目線で話し続けたなら、
顔も胸も完璧だな。
と、止めを刺してやろう。
もう、華陽の顔については、云わなくなるだろう。
ああ、良い気持ち。
隣の部屋の、華陽の処に行って抱き上げた。
華陽は、可愛い、良い子だ。
何持っている?
お馬さんか。
昇平姉上は、沢山持って来てくれたな。
部屋には、縫いぐるみが散らばっていた。
華陽が手に取って、走らせる事が出来る程の大きさだ。
片手と云う訳にはいかないが。
馬の事を、ぅま、と云った。
山羊の事を、ぎ~と云った。
牛の事を、ぅち~と云った。
全て、生活の中にいる物たちである。
実物が何を指しているか分かっている。
朕の事を、“ち~”と呼ぶ。
山羊も牛も華陽の乳のため、一緒に連れて来たのである。
出発が遅れた理由でもある。
蓮も、父上のことは、最初、“ち~”と呼んでいたと云う。
やっぱり父娘だ。
あいつ、おおっぴらに、華陽の顔を馬鹿にしていたが、もう出来ないだろう。
少しでも早く、決着を付けたかった。
華陽が気付く前に。
自分で気付くのは、どうしようもない。
だが、人に指摘されるのは傷付く。
まして、それが母親だなんて。
倍、辛いだろう。
華陽、今日は良い日だな。
陝州での、代宗の生活であった。
帰りの車駕で、華陽は、代宗の懐にいた。
手を代宗の脇に入れ、ぬくぬく、桃色の頬をしている。
足は、代宗の太腿を踏みつけている。
ここが、出かけるときの、定位地と思っているようだ。
顔を見て、云った。
まるで、桃だな。
丸くて、柔らかくて、美味しそう。
昇平姉上、好き?
ちゅき。
縫いぐるみ、何が好き?
じぇ~んぶ。
上手に話せるようになったな。
代宗は、幸せを噛み締めていた。
左丞の顔真卿は、
陛下には、宮殿に帰る前に、陵廟に先に寄り、拝み、それから、帰るようにして頂きたい。
と、請うた。
宰相の元載は従わなかった。
顔真卿は、怒って云った。
朝廷は、どうにか、持ちこたえました。
だが、宰相殿は、再び壊す気なのですか!
顔真卿は、正論を吐く。
相手が元載のように偉い人でも、遠慮がない。
元載は、顔真卿の云った言葉を根に持った。
元載は、権力者である。
すぐではないが、後で、顔真卿は、左遷の浮き目にあうのである。
十二月二十六日、
代宗は、長安に着いた。
郭子儀を長とした、城中の百官と諸軍の軍人たちが、さん水の東側で、地に伏し罪を待っていた。
代宗は、労って、云った。
卿を早く用いなかったから、このような事になった。
ご苦労であった。
魚朝恩を、禁軍の兵士全てを管轄させ、天下観軍容宣慰処置使とした。
権力も代宗の寵愛も、比べる物がない程であった。
“程が去り、魚を得た”と、云われた。
“蝮が去り、虎を得た”とも。
こ県と中渭橋で、吐蕃に備え、兵を駐屯させるため、城を築いていた。
そこで、駱奉仙をこ県築城使とした。
遂に、兵士をもつ将軍となったのだ。
この話を聞いた僕固懐恩は、自分に未来が無いと悟ったであろう。
我を謀反人とする者が、順調に出世する。
陛下は、その者の言葉を信じたと云う事だ。
我の言葉は信じて貰えないと云う事でもある。
こんなに代宗を慕っているのに。
僕固懐恩は、かつて、朝賀で、象にリンゴを投げる幼子に目を奪われた。
可愛いかった。
一年経つ度、その子は、大きくなっていた。
他人ごとながら、成長が楽しみであった。
それが、代宗であった。
なお、辛かった。
だが、どうして良いか分からなかった。
郭子儀に会いたかった。
話を聞いて貰いたかった。
だが、謀反人と疑われている我とは、会わない方が良い。
郭子儀だって、疑われる。
ただ涙が出た。
十二月二十七日、
苗晋卿を太保とした。
裴遵慶を太子少傅とした。
二人供、政事から手を引かせた。
宗正卿(皇族を任じた。皇族に関する全般の事を司らしめた。)の李けんを黄門侍郞とし、同平章事とした。
裴遵慶が、政事から去ったので、元載は権力と利益が益々盛んになった。
李輔国は、皇帝の周りの者を買収して皇帝の考えを知ると云う、李林甫のやり方を踏襲していた。
そして、その情報を元載にも流していた。
だから、元載は、李輔国が生きている間は、情報を貰っていた。
だが、李輔国は死んだ。
そこで、代宗に付き従う内侍・董秀に金を渡し、主書・卓英倩を使い、密かに往き来させ、自ら情報を得た。
だから、元載は、代宗の考えの奥深く微妙なことまで、必ず知っていた。
代宗の云う言葉に元載の言葉は、ぴったりと合った。
代宗は、この事から、自分と考え方が良く似ている元載をますます寵愛した。
かつて、元載は、李輔国が代宗に疎まれはじめたので、李輔国から離れたいと思った。
程元振が、李輔国を殺す命を受けた時、協力者(内通者)を求めた。
それは、元載と云われている、
李輔国の屋敷は、立派だという。
そんな屋敷で寝ている場所がどうして分かるのか?
王きょうの屋敷は、一日かけても廻りきれないという事であった。
李林甫は、刺客を恐れて、夜、何度も寝場所を変えたと云う。
重臣の屋敷は広いのである。
内部の事情を知らなければ、則ち、どこで寝ているか知らなければ、暗殺は出来ない。
李輔国の妻の縁者である元載が、李輔国の情報を、則ち、寝場所を程元振に教えたと、考えられている。
元載は、そう云う人物なのである。
吐蕃はすでに去った。
吐蕃によって皇帝に立った、広武王・承宏は、草野に逃げ隠れしていた。
代宗は、広武王・承宏を許し、誅殺しなかった。
十二月二十八日、
広武王・承宏を華陰県で釈放した。
華陰県は、長安の東、潼関の西で、洛陽、陝州、潼関の通り道だ。
人通りは、多いはずだ。
所縁のある人が通れば、助けて貰えるだろう。
程元振は、既に、罪を得た。
故郷の三原に帰されていた。
三原、距離から云えば、華陰より近い。
長安の北、渭水を渡るとしても、近い。
そんな地理的条件が、程元振の判断に影響を与えたかもしれない。
故郷に帰されたと云う事は、農業でもせよと云う事かも知れない。
宦官になったと云う事は、当てに出来るような家では無いと云う事だ。
長安の安楽な生活を経験した者にとって、田舎は耐え難かったのかも知れない。
おまけに、代宗が長安に帰ってきたと、聞いた。
代宗の優しさが思われた。
また、官職をお願いしよう。
自分がした悪事を忘れて、程元振は、賭けに出た。
多くの人に怨まれている事は忘れて、女子の衣を纏い変装して、すぐに、バレないように馬車で長安に入ったのだ。
門の処では、当然、検閲された。
嘘の申告がされていたであろう。
女子と。
かつてのようには、見過ごしては貰えない。
門での検閲が報告され、京兆府に捕らえられた。
吐蕃は、松州、維州、保州と雲山の新しい二城を手に入れた。
西川節度使の高適は、取り返そうとしたが、出来なかった。
剣南地方と西山地方の諸州は、また、吐蕃に侵入された。
代宗は、昇平を呼んだ。
目の前には、華陽の正月の晴れ着が並べられていた。
傍らで、華陽は、上手に伝え歩きをしていた。
昇平を見ると、側に行こうと、手を離しちょっと立った。
代宗が走り寄り、華陽を抱き上げた。
顔をすりすりして、
凄いな、華陽。
立つなんて。
凄いな、華陽。
と、云い続けた。
わ~ん
髭のことを忘れていたのだ。
しゃっくりをする華陽に、代宗は平謝りであった。
見てられないわ。
昇平、こんなに、構って貰ってない。
そう云うなよ。
昇平は、母上にして貰えた。
華陽は、我が母親の分までしなければならんのだ。
悪いが、仕方が無いと思ってくれ。
そうだった。
ところで、何の用。
正月の晴れ着だが、靖羅の処から届いた。
金の掛かった、良いものだ。
だが、似合わないのだ。
どう思う?
でしょうね。
衣に、負けているのよ。
衣が、立派過ぎて、衣が華陽の良さを引き出さない。
確かに。
華陽には、どんな物が良いのだろう。
地味な方が似合うと思う。
昇がしていたみたいに、男装させたら?
スッキリした顔だから、その方がいいかも。
そうだな。
だが、まだ歩けない幼子だ。
そう云えば、丹丹も、男装を好んだな。
我が家の伝統か。
女子の男装には、詳しいのだろう。
華陽の衣、頼めるかな?
分かった。
華陽は幸せね。
そうだ。
華陽は、幸せだ。
こんないい姉上がいるからな。
有り難う、昇平。
ね~、
ね~、
おい、呼んでるぞ。
華陽、調子がいいわね。
なん着か、持ってくる。
正月までに、
担当の者に、優先するように、云っておく。
頼むな。