吐蕃、長安に侵入
吐蕃が国境を越えた。
国境を守る将軍が、急ぎ報告した。
だが、程元振は、全部、聞かなかった。
冬、十月、
吐蕃がけい州に侵入した。
刺史の高暉は、戦ったが敗けた。
城を挙げて、降伏した。
そして、遂に、吐蕃軍を長安に向けて案内した。
吐蕃を領内深く、引き入れたのである。
ひん州を過ぎて、代宗は、吐蕃の侵入を聞いた。
顔が、青冷めた。
華陽をどのような形で、守ろうか?
寒い時期だ。
風邪をひかさないよう、健康管理も必要だ。
まあ、二人の乳母と、そのまま世話役とした二人の按摩もいるから、安心して任せられる。
だが、どうしても、朕が決め、しなければならない事がある。
十月二日、
吐蕃は、奉天、武功を過ぎた。
都は、恐れ震えた。
代宗は、詔で、雍王・かつを関内元帥とし、郭子儀を副元帥とした。
二人は、咸陽を守るために出陣した。
咸陽で止めて、長安に来ないようにとの策である。
郭子儀は、引退して久しかった。
八月からは、長安に住んでいたのである。
郭子儀の軍隊は、解散していた。
慌てて、兵士を募った。
二十騎程、兵士を得た。
咸陽に着いた。
吐蕃は、吐谷渾、党項、てい、羌などの二十万人以上の兵士を指揮していた。
数十里広がる兵士の数であった。
兵士の数が多いので、司竹園から渭川を渡るのではなく、山の東を回った。
郭子儀は、判官中書舎人の王延昌を使い、朝廷で
兵士を増やして頂きたい。
と、頼んだ。
だが、程元振は、会う事もなく、その上奏を差し止めた。
十月四日、
渭北の行営兵馬使・呂月将が長となり、二千の精鋭でちゅうちつの西で、吐蕃を破った。
十月六日、
吐蕃は、ちゅうちつに侵入して、呂月将と、又、戦った。
兵は尽き、呂月将は捉えられ、捕虜となった。
信頼できる郭子儀はいない。
程元振は、使い物にならない。
朕がしなければ。
代宗は、兵士たちを便橋の手前で何列も、道幅いっぱいに並ばせた。
ただ、刀を振ったり出来る間隔は取るようにしていた。
その様子を見た橋の向こう側の吐蕃は、戸惑い、どうしていいか、わからなかった。
吐蕃は、便橋を渡らなかった。
もし、吐蕃が橋を渡れば、橋の幅の人しか通れない。
並んだ多くの兵士たちに、渡った兵士は次々と、殺されるだろう。
いくら、多くの兵士が後ろにいても関係がない。
代宗は、安祿山の乱の時、元帥として働いている。
兵法だけでなく、いろいろ実践して学んだのであろう。
次の日、十月七日、
代宗は、東に向けて出発した。
長安は、持たない。
華陽の為にも、早く避難しなければ。
本当は、もっと早く出発したかった。
だが、大人の持ち物は、どこででも調達できる。
だが、赤子の物は、そう云う訳にはいかない。
粗末な物など、華陽の身に付けさせたくなかった。
代宗は、鼻と頬を赤くした華陽を抱くと、手が冷たい事に気付いた。
代宗は、衣の前をほどき、華陽を懐に入れた。
父上の脇に手を入れなさい。
華陽の手を脇に導き挟んだ。
一瞬、震えた。
足も冷たかった。
手を入れ、足を握った。
少ししたら、暖かくなるからな。
華陽が、しょぼくれた顔で父親を見た。
華陽、そんな顔したら、意地悪なおばさんに笑われるぞ。
さあ、笑って。
華陽は、おずおずと笑った。
周りの雰囲気が、何時もと違うので、それなりに、緊張しているようであった。
長安の役人は逃げ隠れ、禁軍・六軍は、逃げ散った。
郭子儀は、話を聞き、慌ただしく咸陽から、長安に帰った。
車駕は去っているところであった。
代宗は、辛うじて、宮殿の北にある禁苑、禁苑の光泰門を出てさん水を渡っていたのだ。
女子供連れの外出は、手間が掛かるのだ。
弓で生き物を射る、射官の将校の王献忠が、部下四百騎を連れて、叛こうと長安に帰ってきていた。
王献忠は、走り去る代宗の乗った車駕に向けて、射官四百人に矢を放たせた。
窓から覗いた代宗は、心が冷えた。
だが、自分が落ち込む訳にはいかない。
華陽のためにも、ふんばらなければ。
懐の華陽を見た。
代宗は、明るく笑った。
暖かくなったか?
あ~。
華陽は、宮殿以外は初めてだな。
寒い時期だから、特に見る物も無い。
同じ馬車に乗っている乳母に、乳の時間を聞いた。
お腹が空く前にやってくれ。
体が暖まる。
代宗の馬車の中は、華陽の物で溢れていた。
皇帝の車駕らしくなかった。
王献忠は、豊王・きょうら、十王を脅して西の方で吐蕃を迎えさせた。
郭子儀と、長安城の西側の一番北にある、開遠門の内側で出会った。
郭子儀は、王献忠を叱った。
王献忠は、馬から降りて、郭子儀に云った。
今、陛下は、東に遷りました。
社稷に主はいません。
郭令公の身は、元帥です。
皇帝の廃立は、郭令公の一言、在るのみです。
郭子儀は、応じなかった。
豊王・きょうが、口を挟んで云った。
郭令公、何でしゃべらないのだ!
郭子儀は、きつく叱った。
そして、代宗の行き先である仮御所に護衛の兵士を送った。
十月八日、
代宗の車駕は、華州に着いた。
役人たちは、逃げ散っていた。
再び、お供をしようとする者はいなかった。
随行してきた将士たちは、凍え飢えていた。
観軍容使・魚朝恩を将とした神策軍が、陝州から迎えに来ていた。
長安城から出る時、部下である筈の数百人から、矢を放たれ、心細い思いをしていた代宗は、嬉しかった。
ここに、皇帝を想ってくれている者たちがいる。
魚朝恩を大切にしなければ、と思った。
代宗は、魚朝恩の陣営を訪れた。
随行してきた将士たちにも、温かい食事が振る舞われた。
魚朝恩と神策軍、
双方とも、かつて、ぎょう城の安慶緒を官軍と共に囲んでいた。
その時、安慶緒を助けに来た史思明と、安陽で戦い、大風が吹いて、官軍は敗けた。
神策軍は、吐蕃対策のために哥舒翰が作った辺境防衛軍の一つであった。
安祿山の鎮圧のため、担当の場所を離れ、戦いに参加していたのだが、敗けても、帰る処は、吐蕃に占拠され、無かったのである。
そこで、陝州に駐屯していたのだ。
魚朝恩は、安慶緒のいるぎょう城を囲んでいたが、助けに来た史思明に戦いで敗けた。
魚朝恩は、観軍容使と云う全軍を監督する立場にあり、戦の敗北の責任があった。
だから、すぐには、長安に帰らなかった。
陝州の地で、神策軍を自分の管轄下に置いて、神策軍使を名乗っていた。
神策軍は、常に国境で吐蕃相手に激しく戦っていた。
だから、強さが、禁軍とは、まるで違うのである。
史朝義に止めをさす戦いには参加したが、僕固懐恩に手柄は持っていかれた。
精鋭・神策軍を手に入れた魚朝恩は、機会が訪れるのを待っていたのである。
そんな時、吐蕃が長安に侵入し、代宗が東に向かったと聞き、好機が来たとばかりに華州に行き、魚朝恩の陣営に迎い入れたのである。
豊王・きょうは、潼関で代宗に会った。
郭子儀に、護衛兵と共に送られたのであろう。
代宗は、責任を問わなかった。
退き幕営に入った。
随行の者が、思い上がった話を語った。
群臣たちは議論をして、豊王の罪を問い、誅殺するよう、代宗に上奏したのである。
提言を受けた代宗は、豊王に死を賜った。
十月九日、
吐蕃が、長安に入った。
高暉と吐蕃の大将・馬重英等はひん王・守礼の孫・承宏を皇帝として立てた。
ひん王・守礼は、高宗様と武后様の次男・賢・章懐太子のたった一人、生き残った息子である。
武后様の生きている間、定期的に杖刑を受け、天気が悪くなるのを予報出来たと云う人物であった。
回鶻の可汗の妹を妻とした。
改元をし、百官を置いた。
以前、翰林学士であった于可封等を宰相とした。
吐蕃は、府庫、市、里の物を奪い取った。
里の門、建物を燃やした。
長安中が、一つの空の下、ひっそりとしていた。
苗晋卿は、病で家で寝ていた。
人を遣わして、輿に乗せ参内させた。
脅したが、苗晋卿は、口を閉ざして何も云わなかった。
敢えて殺さず、捕虜とした。
この頃、逃げ散った禁軍・六軍は、その場所で人から物を奪った。
下っ端の武士や民は、乱を避け、皆、山や谷に入った。