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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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唐の方針

おっ、忠王よく来たな。

陛下、御機嫌はいかがですか?

あいも変わらずだ。

この前、お話して、随分、陛下のことが身近に感じられるように、なりました。

そなたもか?

朕もだ。

やっぱり息子だな、

と思えたよ。

先日、蓮の衣をたくさんいただいて、ありがとうございます。

少しは、朕の孫らしくしなければな。

立派すぎて、もったいない気がします。

安楽公主を思いだすなあ。

あの者は中宗様の配流先で生まれた。

着せる物がなくて、中宗様が着ていた衣を脱いで、着せたそうだ。

着れる物があるのだから、着たらいいのだ。

着る物がない時も、あるかもしれない。

安楽公主も都で、ふつうの公主として、育っていれば、あんなに強欲ではなかったかもしれない。

生まれてから、田舎で十五年も、華やかな世界を知らずに育った。

十五年分の自分に与えられたであろう物を、取りかえそうとしたのかもしれない。

そう考えると、可哀想な気がする。

武后様も、罪つくりな方だ。

ああ、それと、中宗様が、かつて興慶宮に行幸された事がある。

聞いたことがあるか?

興慶宮に、湧き水から池ができて、その池に龍がいて、この坊から、天子がでます。

との、予言があったのだ。

その噂でも、聞いたのであろう。

象に飾りたてた船をひかせ、やって来たのだ。

そして、その船を池に浮かべて、演奏をさせたり、飲めや歌えの騒ぎのあと、象に船を踏みつぶさせその残がいを池に捨てて、お帰りになったのだ。

安楽公主の振舞いから思いだしたが、中宗様のなさり方は、皇帝として、みっともなかった。

噂が気にいらないのはわかる。

しかし、立場を考えて、威厳をたもたねばな。

つい、そなたも、未来の天子だ。

一言いっておきたくてな。

しばらくして、中宗様が、突然亡くなった。

兄弟で、龍のたたりかも、と、話したものだ。


今日は、兵士の話の続きをしよう。

一番の問題は、折衝府の配置なのだ。

兵士は、その地区の折衝府が戸籍から選び、登録し、戦闘訓練をする。

そして、他の折衝府と調整して、配属させる。

だから、折衝府のない地区では、徴兵がないということだ。

そして、折衝府は長安付近に全体の四割りほど、その近辺も、三割りほど、ひどく均衡がとれてないのだ。

揚子江から南は、無いことはないが、数えるしか無いのだ。

少ないのだ。

なぜ、こんなことになったのか?

唐の制度は、王朝設立のとき、

“漢魏の旧”と、宣言して、唐の基本方針としたのだ。

隋の煬帝の政治を否定して、文帝前半期の体制に戻そうとしたのだ。


隋の文帝は、俶と同じで、生まれた時、紫色の気が庭に充満したそうだ。

そして、智仙尼が

この子を俗世間に住まわせてはなりません。

と、言って別館で、自ら育てたそうだ。

ある日、母親が文帝を抱いたところ、突然、頭から角が生えてきて、体が鱗でおおわれるのを見て、驚いて落としてしまった、そうだ。

それを見て、智仙尼が、

天下を得る日が遅くなりましたね。

と、言ったと言う。

隋の文帝・楊堅も、生まれながらの天子だったのだ。


だから太宗様やまわりの者も、文帝にならおうとしたのだ。

文帝は、南北が統一され、戦が終わったので、軍府を廃止したのだ。

もう、これからは戦のない時代になると、思ったのだ。

まあ、高麗遠征は、一度だけだが、したけどな。

廃止したのは、当然最後の敵、陳を取り巻く軍府だ。

それで、揚子江から南の軍府は、ほとんどなくなった。

そして、山東地方。

今ある軍府は、その時の残りなのだ。

文帝は軍府を減らしただけではない。

開皇十年五月の詔に

これより軍人はすべて各州県に所属させ、土地や戸籍もすべて、民と同様にせよ。

と、ある。

兵士は普通の戸籍ではなかったという事だ。

軍治優先、兵民分離で、統一を目指したのだな。

文帝は、

古来の肉刑

鯨・いれずみ、ぎ・はなきり、ひ・足切り、宮・去勢、大辟・死刑、をやめ、

笞・むちうち、杖・むちうち、徒・懲、流、死、

の非肉刑に、変えた。

だが、煬帝は、

大辟、墨、ぎ・はなきり、ひ・足切り、宮、

五瘧の肉刑に戻した。

文帝は 州、郡、県の制度を、役人が多すぎる、と、州、県の制度にした。

そして、九品官人法、家柄主義をなくし、役人の質を高めるため、広く人材を集めたいと、科挙を始めた。

煬帝は、州、郡、県と、元の制度にもどした。

だから、文帝時代のやり方は良くて、問題がないと、考えられていたのだ。

文帝の軍府は、関中本位政策を、全国統治の基本としている。

煬帝は、高麗討伐のため、たくさんの兵士を得るため、軍府を全国に、まんべんなく設置した。

だが、太宗様たちは、煬帝のやり方より、文帝のやり方を選んだ。

隋の軍府は、唐では、折衝府と名を変えた。

そして、文帝のやり方を継承した、いう訳だ。

だから、長安付近の民たちは、徴兵の役が重すぎて逃戸となり、いくら連れ戻しても、多分、また、逃げだすだろう。

しかし、これ以上大変な思いはさせられない。

分かったなら、改善しなくてはな。

ああ、金がいる。

税制改革、税制改革。

俶よ、頼むぞ。

でも、やっばり文帝・楊堅はスゴい。

今まで、勝手に採ることを許されていなかった塩池、塩井を解放したという。

民は大喜びだったそうだ。



この前の説明の、補助だ。

少しは、わかったか?

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