回鶻との勝ち戦
十月二十三日、
それぞれの軍は、陝州を出発した。
僕固懐恩は、回鶻の前鋒の左殺と陝西節度使・郭英乂、神策観軍容使・魚朝恩を殿とし、べん池から入った。
ろ澤節度使・李抱玉は河陽から入り、河南等道副元帥・李光弼は陳留から入った。
雍王・かつは、陝州に留まった。
十月二十六日、
僕固懐恩等の軍は、同軌にいた。
史朝義は、官軍が着いたと聞いたので、将軍たちと、策を練った。
阿史那承慶が云った。
唐が、もし、漢人の兵士だけで来ているならば、兵士だけと戦えば良い。
もし、回鶻の兵士たちと来ていたならば、その先鋒には当たらず、河陽に退き守り、避けた方が良いでしょう。
史朝義は、云うことを聞かなかった。
十月二十七日、
官軍は、洛陽の北に着いた。
兵を分け、懐州を取ろうとした。
十月二十八日、
懐州を攻め落とした。
十月三十日、
官軍は、横水に沿って並んだ。
賊兵は、数万人いた。
柵を立て、固めた。
僕固懐恩は、敵に当たろうと、西原に兵士を並べた。
強い騎兵と回鶻を、柵から東北に出るように、南山に並べた。
僕固懐恩の軍と回鶻の軍が、表と裏になって合わせ撃ち、賊軍を大破した。
だが、史朝義は、その精兵で、十万の兵士をことごとく救った。
そして、昭覚寺で、また兵士を並ばせた。
官軍は、速い馬で攻撃した。
多くの兵士が、死んだり、怪我をしたりした。
賊軍は、並べた兵士を不動の物とした。
誰か兵士が倒れると、すぐに代わりの兵士が立った。
だから、いつも兵士が立っている状態が続いた。
魚朝恩が、射手五百人を戦いに参加させた。
矢を射させたので、多くの死者が出た。
と、云えども、列は、やはり最初のようであった。
鎮西節度使の馬りんが、云った。
事は、急げ!
ここで、退き引いたなら、必ず、敗ける。
だから、急ぐように云ったのである。
遂に、一騎で力を振り絞って、撃って出た。
賊兵は、各々、盾を体の前に構えていた。
馬りんは、賊の二人の盾を奪った。
そして、万人の兵士の中に空いた穴のようになった、その場所に突入した。
人馬が次々と突入し、賊兵は、伏せ従った。
官軍の多くが、この時に乗じて、並んだ人の内側に入った。
賊軍は、大敗した。
場所を移して、石榴園で戦った。
老君廟で戦った。
賊軍は、また、敗けた。
人と馬は、お互いを踏みにじった。
“尚書谷”を人と馬で埋め尽くした。
斬った首六万級、
捕虜二万人、
史朝義は、軽騎数百騎で、東に走った。
僕固懐恩は、洛陽、河陽城を勝ち進み、賊軍の中書令・許叔冀、王ちゅうを捕らえた。
“許す”との、詔を下した。
元帥・雍王の副なのである。
詔を預かっていたのであろう。
僕固懐恩は、回鶻の可汗を河陽の軍営に留めた。
そして、息子、右廂兵馬使・僕固現と朔方兵馬使・高輔成を帥として、歩兵、騎兵一万余りの兵士を勝ちに乗じて、史朝義を追わせた。
鄭州に着いて、再び戦ったが、すべて勝った。
史朝義は、べん州に着いた。
部下である陳留節度使・張献誠は、門を閉じて、史朝義が入るのを拒んだ。
追っ手が迫るので、史朝義は、濮州に走った。
官軍を見た張献誠は、門を開け、出て来て、投降をした。
回鶻は、洛陽に入った。
好き勝手に殺人、略奪をした。
死者は、数万人になった。
火が十日間、消えずに燃え続けた。
朔方、神策軍もまた、洛陽、鄭州、濮州、汝州で、回鶻と同じ様にした。
通り過ぎた処では、人を捕らえ、財物を奪い取った。
三か月で終った。
すべて取り尽くしたのである。
これらの家では、すっかり奪われ尽くし、民たちは、着ている衣まで奪われ、この寒い季節、紙を体に当てて忍んでいた。
回鶻は、河陽の宝、お金、置いてある処から全てを奪い、そこの将・安恪に守るようにと、留めさせた。
回鶻のみならず、朔方軍、神策軍までもが、略奪した。
それも、同胞の物を。
長安を取り戻しに行く前の鳳翔の宴で、粛宗は、郭子儀に、“略奪は許さんぞ。”と、云っていた。
略奪が考えられるから、心配して、釘を刺したのである。
かつて、高句麗に遠征した時、李勣が太宗に、“兵士が略奪を楽しみにしているので、許して欲しい。”と、頼んだ。
太宗は、その分は支払うからと、略奪を許さなかった、と云う。
回鶻だけでなく、唐の兵士だって、似たような者だったのだ。
僕固懐恩が、回鶻を河陽に置いていったのは、蕃族のやり方を知っていたからであろう。
来てやったのだ。
その分は、頂くからな。
ましてや、娘の夫、身内だ。
獲物を得る、浅ましい姿を、唐の武官たちに見られたく無かったのであろう。
僕固懐恩は副元帥みたいな者だ。
見栄もあろう。
十一月二日、
露布が、長安に着いた。
露布とは、
軍隊の戦勝報告の手紙。
絹切れに書いて、竿の先につけて報告した。
史朝義は、濮州の北の黄河を渡った。
僕固懐恩は、進み滑州を攻めた。
滑州を落とした。
敗けた史朝義を、衛州に追った。
史朝義は、すい陽節度使の田承司等将士四万人以上と一緒に、また官軍と敵対して戦った。
僕固現が、これを討ち破った。
史朝義は、長い距離を駆けて、昌楽の東に着いた。
史朝義を元帥として、魏州の兵士たちと共に官軍と戦った。
また、敗けて走った。
ぎょう郡に於いて節度使・薛こうが、相州、衛
州、めい州、刑州の四州合わせて、陳鄭で澤ろ節度使の李抱玉に投降した。
恒陽節度使の張忠志は、趙州、恒州、深州、定
州、易州の五州合わせて、河東節度使の辛雲京に投降した。
李抱玉らは、敵の陣営に進軍せず、兵士を五人づつの組に分けて調べた。
薛こう等武将は、皆、代わる代わる調べを受けた。
そこには、何も無かった。
僕固懐恩は、皆を各々、元の地位に戻すように詔で命を下した。
これを見て、李抱玉、辛雲京は、僕固懐恩の二心(謀反の心)を疑った。
そして、李抱玉、辛雲京、各々が、その思いを上奏した。
僕固懐恩は、回鶻と一緒に謀反を起こそうとしているのではないでしょうか?
その時、味方にするため、敗けた将軍たちに、恩を売っているのではないでしょうか?
と。
朝廷では、秘かに、このような、いろいろな意見もあろうかと、備えていた。
僕固懐恩も、また、自ら調べて、上奏した。
代宗は、僕固懐恩とは、長安を回復した時からの長い付き合いである。
僕固懐恩をよく知っている。
夜中に、何度も、“賊軍を討たせてください。”と、云って来ては、朕を起こした。
疑われるような人物ではない。
分かっている。
だが、長子・かつを守ってくれなかった怨みがあった。
代宗は、僕固懐恩を疑う上奏文を見た。
複雑な気持ちで僕固懐恩を慰め、励ました。
十一日六日、
洛陽及び、河南地方、北の地方(幽州節度使など)で、偽の官位を受けた者は、一切、罪を問わない。
との、詔を下した。
十一月十四日、
戸部侍郎・劉晏は、河南道水陸転運都使を兼ねることになった。
劉晏は、仕事が手いっぱいなので、戸部侍郎の役を、顔真卿に譲った。
利州刺史に任じられていた顔真卿にとっては、ありがたい話であった。
長安に帰れるようになったのである。
文人の顔真卿は、やっぱり文化ただよう都が好ましかったのである。
劉晏と顔真卿は、特に親しい訳ではなかった。
人柄を見ての、好意であったようだ。