李輔国の死
雍王・かつを、天下兵馬元帥にした。
十月十六日、
雍王・かつは、宮廷を下がり、元帥として出発した。
代宗は、御史中丞・薬子昂、魏きょを左右廂兵馬使とした。
中書舎人・韋少華を判官とし、給事中・李進を行軍司馬とした。
史朝義を進んで討たせるように、諸道節度使と回鶻を陝州に置いた。
代宗は、郭子儀を元帥・かつの副とし、程元振、魚朝恩を阻みたいとした。
それと、朔方節度使の僕固懐恩を同平章事と絳州刺史とし、諸軍節度行営を治めさせ、雍王・かつの副とした。
代宗が、東宮にいた、皇太子の時、李輔国は勝手気ままに振る舞っていた。
代宗は、口には出さなかったが、心の中は、穏やかではなかった。
即位するに及び、李輔国には、謀反を起こそうとした皇后を、殺した功績があった。
だから、誅殺したい気持ちを表せなかった。
十月十七日の夜、李輔国の屋敷に盗賊が入った。
李輔国を刺し殺し、首と右腕を持ち去った。
首は、ブタ小屋(便所)に捨てられたと云う。
命令で、盗人の担当の役所から、宦官が遣わされ、家の人にいろいろ聞いて、調べたようだ。
首が無いので、代宗は、木を彫って首を作らせ、葬式をした。
“太傅”を贈った。
新唐書だけが、諡を伝えている。
“醜”と、云う。
なかなかお目にかかれない諡であり、代宗の気持ちが、良くわかる。
この事件の首謀者は、代宗と云われている。
代宗が、程元振に命じて殺させた、と。
だから、この事件以後、程元振が代宗に対して、強く出るようになった、と云う。
代宗を悩ます人物が、李輔国から程元振に変わっただけだと云われている。
だが、玄宗の苦しみの復讐を果たした満足感はあったであろう。
右腕は泰陵(玄宗の墓)に祀られた。
代宗は、玄宗を高力士から引き離し、西内に移した李輔国が、どうしても許せなかったのである。
立場を利用して、勝手に詔を作るその右腕を、次の人生で使えないようにしたのである。
李輔国は、首も失った。
次の人生も失ったのである。
紀元前、周の時代、
祭祀を司る役所の役人の冢人の仕事、墓地を管理者する冢人は、墓地を区画して、王の墓を中心として、諸公の墓は左右に分れて前方に、大夫の墓はその後方に配置するのである。
その中に、戦死した者は入れられぬに対して、功のある者の墓は前方に置かれると書かれている。
そして、敗戦者だから、これを罰する事こそ、「左伝」は、戦死者・罪死者を兆域に入れなかった理由であろうと、している。
貝塚茂樹氏は、「礼記」を引いて、
畏者、すなわち、兵死した者は弔問されない。
その故は、「礼會子記」によると、
兵死すなわち武器で斬り殺された者は、身体が損傷しているから、墓地にも葬られないのであるとしている。
そして、以上の説明を面白いとしている。
一般に原始人、古代人の間においては、死とは魂魄が肉体を去ることであるとし、死体を完全に保存しておけば、再び霊魂がその肉体に復帰し再生することが可能であると信じ、死体を出来るだけ完全な形で埋葬、保存しようとする習慣がある。
古代中国人もまた、死後、先ず招魂の儀を行い、死体を離れた魂を再び招き帰そうとし、それが不可能となってから、始めて死体に対する祭りが行われるところから見ると、死および死体に対する信仰は、上述する古代人のそれと同一であったのである。
死後一定の期間、死体をそのまま殯として居室に保存して生者の如くに祭り、これに享食する儀礼は生前と大して変化がないのは、その間なお魂の帰ってくる可能性を予想していたからである。
それであるから、肉体が傷つけられて死ぬことは、古代中国人の最も嫌ったところである。
「左伝」の如く、戦死者あるいは犯罪者の死体を公墓地に埋葬しない理由は、その戦死または罪死自体を不名誉としたからではない。
戦死者・刑死者は武器で斬り殺され、身首処を異にし、死骸が完全でなく、再生を目的とする喪礼または死後の祭りを享ける意味が失われているからであったと解釈しなければならない。
周代の人々は兵死・刑死などの変死を厭い、なによりも畳の上で平和に病死することを至上の幸福と考えていたらしい。
「左伝」「国語」の遺言などに現われる“首を保って没する”という定り文句は、この周代人の理想を具体的に書き表わしたものに外ならないのであった。
この“首領を保って没する”と云う成語は、元来は死骸の保存により、死後の他界生活を確保し再生の日を待つことを意味する。
貝塚茂樹氏、『古代中国の精神』「不朽」を参考にさせていただきました。
以上が、古代中国人の死生観である。
唐になると、感覚も、大分変化したであろう。
だが、首が無いのでは再生出来ない。
代宗には、それは解っていたのであろう。
だのに、右腕まで奪った。
奪わずにはいられなかったのである。
きつい、竹篦返しである。
十月二十一日、
代宗は、僕固懐恩に母と妻と共に回鶻の公営を訪れるように命じた。
可汗の妻である、僕固懐恩の娘が、家族に会いたがっているであろうと思っての、配慮であった。
雍王・かつは、陝州に着いた。
回鶻の登里可汗は、陝州の華北県に駐屯していた。
元帥である雍王・かつは、部下たち、数十騎を従えて会いに行った。
わざわざ、来てくれた回鶻に、御礼方々、挨拶しようとしたのであろう。
登里可汗は、会って直ぐに、元帥・かつに拜舞をしないと責めた。
助けに来てやったと、思う心が、云わせた言葉であろう。
驕っているのだ。
薬子昂が、そのような礼は、しないのが当然と返答した。
回鶻の将軍・車鼻は、
唐の天子は、葉護王子と兄弟の契りを結んだ。
登里可汗は、葉護王子の弟である。
登里可汗は、雍王にとって叔父上になる。
何で、拜舞をしないのだ。
薬子昂が、云った。
雍王は、天子の長子です。
そして、今は、この戦の元帥です。
中国の諸国の君主です。
どうして、諸国の君主が外国の可汗に拜舞をしなければならないのですか!
おまけに、玄宗上皇、先帝粛宗の御二人の殯の最中です。
舞踏は、不適切です。
云い争いが、しばらく続いた。
将軍・車鼻は、遂に、薬子昂、魏きょ、韋少華、李進を引っ張って行き、各々、百回鞭打った。
雍王・かつは、年少であったので、そのような事に慣れていなかった。
呆然とした雍王・かつは、宿営に帰った。
魏きょ、韋少華は、その日の夕方死んだ。
官軍は、雍王を見て、また、付いて行った兵士からも、回鶻軍での様子を聞いた。
皆、雍王が辱しめを受けたと思った。
回鶻軍を誅殺しようとした。
だが、雍王は、賊軍をまだ滅ぼしていないからと、止めさせた。
回鶻軍は、強い。
長安を取り戻した時、洛陽の安慶緒が、官軍を洛陽で向かい討とうとしたが、官軍の中に回鶻軍がいると知り、逃げ出したのである。
だから、史朝義も回鶻を取り込もうとした。
薬子昂は、代宗に報告しなければと、鞭打たれた体をうつ向いた姿勢で、馬車に乗り長安に向かった。
担架に乗ったまま、会った代宗に謝罪し、雍王のこれからの身の処し方の指示を仰いだ。
代宗は、薬子昂に侍医に見てもらうように命じた。
そして、すぐに、昇平の部屋を訪ねた。
呼んだら、時間が掛かる。
父子だ。
何か羽織って、貰ったらいい。
着替えるより、早い。
起きて来た昇平に、兄・かつが傷付かないようにどうすべきかを、相談した。
回鶻の可汗に会うと、どうしても、堂々とした態度が取れないのでは無いかとの、指摘があった。
そうだろう。
目の前で、四人の部下が鞭打たれた。
だのに、反論することも無く、その場の雰囲気に飲まれ、呆然としていたのだろう。
若いのだ。
仕方がない。
蓮だって、あの年頃なら、そうだったであろう。
雍王・かつが、今後も威厳を持った態度を取るためには、しばらく時間がかかるだろう。
傷付いているのだ。
昇平、相談に乗ってくれてありがとう。
兄上には、しばらく病になって貰おう。
その方が兄上のためにも、唐のためにも良いだろう。
他人には、云えない話だった。
薬子昂に話があると、呼んだ。
担架に乗った薬子昂に、
雍王・かつは、しばらく、陣営で静養するように。
との命令を下した。
そなたは、雍王は体調を崩したと、周りに伝えてくれ。
頼んだ。
そんな体で、よく報告に来てくれた。
ありがとう。
陣営での事、そなたになら、安心して委せられる。
早く帰りなさい。
薬子昂は、陝州に向かった。
部屋に還った代宗は、椅子に体を任せた。
かつの事を考えると、涙が滲んだ。
あの子は、悪く無い。
閉じた目で、珠珠を探した。
だろう?
そうよ。
あの子は、悪く無い。
衰えた唐が、回鶻を増長させ、あの子を弄んだ。
我が元帥の時は、玄宗様と粛宗様がいて、それだけで、威圧したのだ。
回鶻を。
だから、我しかいない唐を、露骨に愚弄したのだ。
雍王・かつに、拜舞せよと。
懐恩は、何をしていたのだ。
副元帥みたいな者だ。
何故、元帥を守らない。
そなたの、娘婿では無いか?
やんわりと、嗜め無かったのか?
代宗の心の中は、回鶻より、僕固懐恩に対する様々な想いが交錯した。
あの陣立ての中で、回鶻にもの申せる者は、僕固懐恩だけだ。
何故、元帥・李かつを、守らなかったのだ?
頭の中を愚痴が、駆け巡った。
息子が可哀想で堪らなかった。
ただ、云えることがある。
拜舞しなかった元帥・かつは、正しい。
元帥・かつは、呆然としながらも、唐の威信を守ったのだ。