回鶻・史朝義から唐の味方へ
九月四日、
来てんを、兵部尚書とし、同平章事とした。
宰相である。
山南東道節度使を兼務とした。
秘書監・韓穎と中書舎人・劉かんは、天文暦法に詳しかった。
乾元年間、二人は、翰林院の待詔であった。
二人は、とても目を掛けられていた。
また、李輔国と馴れ親しんでいた。
代宗が、父・粛宗の陵墓の事で悩んでいた時、広く、占いに付いて相談した。
劉かん、韓穎たちは、純粋で親身でなく、淫らな煩悩で良し悪しを決めた。
この事に依り、代宗の怒りを買い、罪を得た。
嶺南に流罪となった。
九月十八日、
二人は、流刑地に行く途中、死を賜った。
親しくしていた李輔国に、連座したと、云うことである。
九月十九日、
程元振が、驃騎大将軍と内侍監になった。
左僕射・裴冕を山陵使とした。
玄宗、粛宗、二人の陵墓を造る役職である。
宰相の仕事である。
会議である事を相談していた。
程元振と違う意見の者がいた。
九月二十日、
裴冕を施州刺史に貶めた。
九月二十日、
代宗は、昔のよしみを整えたくて、また、史朝義を討つために、兵士を頼もうと、中使・劉清潭を回鶻に遣わした。
劉清潭が、回鶻の朝廷に着くと、登里可汗が、史朝義の所から誘われていた。
史朝義の使いの者が云うことには、
唐室には、大喪(玄宗、粛宗の死)が続いて、今、中原には、主がいません。
可汗、共にその財宝の入った倉庫を、速やかに収めに行きましょう。
可汗は、その言葉を信じた。
劉清潭は、代宗の書状を差しだして云った。
先帝は、天下を手放したと云えども、今の陛下は、その血を受け継いでおられます。
かつて、広平王として、葉護王子と共に長安、洛陽を取り戻した方です。
回鶻の仕事は、兵を起こし、三つの城を投降させるのみ。
見州や県は、皆、荒れ果てて廃墟になっています。
僅かな唐の志があるだけです。
劉清潭は、史朝義の使いの者に、苦しめられ辱しめられた。
劉清潭は、回鶻の様子を書いた書状を、長安に届けさせた。
回鶻は、十万の兵を挙げて来ます。
都は、大騒ぎ。
代宗は、忻州の南にいる殿中監の薬子昂を、労いに行かせた。
かつて、毘伽闕可汗が自分と唐の寧国公主との婚姻の時、息子・登里の嫁を求めた。
粛宗は、皇室関係者を嫁にするとなると、長安に帰らないと決められないので、その場にいた僕固懐恩に命じ、僕固懐恩の娘を妻とした。
粛宗は、勝手に決めたので、僕固懐恩に鉄券を賜った。
その娘が、登里可敦(皇后)である。
可汗の傍にいた、登里可敦は、
お祖母さんに、会いたい。
と、口にした。
それから、登里可汗の態度が変わった。
登里可汗は、
僕固懐恩に会いたい。
と、頼んだ。
僕固懐恩は、その時、汾州にいた。
代宗は、僕固懐恩に会いに行くように命じた。
僕固懐恩は、登里可汗に云った。
唐王朝の恩と誠のある心には、背くことは出来ません。
“唐の味方をし、唐を支えよ。”と、云うことである。
登里可汗は、悦んだ。
こんな忠告をしてくれるのは、身内だけだと。
そして、使いを遣わして、代宗に、
史朝義を討って、唐を助けたい。
と、上奏した。
この話の部分には、違う話もある。
何故、問題にするかと云えば、
九月二十二日、
回鶻登里可汗率衆来助国討逆
と、登里可汗は、唐を助けに兵を率いて来た。
と、旧唐書にあるからだ。
九月二十日に、回鶻に使者が訪れ、それから、僕固懐恩を呼び寄せ、相談したなら、九月二十二日に、何万もの兵を率いて唐に、やって来るのは、時間的に無理であろう。
日付けに無理を感じたので、問題にしているのである。
その違う話では、唐の使者は、史朝義のもとに向かう途中の、登里可汗一行に会ったと云う。
もう約束したからと、断る登里可汗に、しつこく頼む使者。
傍にいた、登里可敦が
お祖母さんに会いたい。
と、云ったから、登里可汗の態度が変わったと云う。
もし、そうなら、登里可敦の働きは大きい。
登里可汗が兵を率いて移動していたなら、九月二十二日に、唐を訪れるのは、時間的に無理ではない。
どちらでもいい事だ。
いずれにせよ、回鶻は、唐の為に、戦うのだから。
話を戻そう。
それから、薬子昂は、登里可汗がどういう戦い方をしたいか、聞いた。
登里可汗は
蒲州の関から入って、沙苑から出て、潼関を東に向いて行く。
と、答えた。
薬子昂は、説明した。
関中は、何度も兵に荒らされています。
州県は、もの寂しい状態です。
恐らく登里可汗は、失望するでしょう。
賊兵は、すべて洛陽にいます。
願わくば、土門から出て、刑州、めい州、懐州、衛州を巡りながら、奪い取り、その得た資財で、軍の装備を充実出来ます。
登里可汗は、賛成しなかった。
また、頼んだ。
太行山脈を降りて南に行き、河陰を寄り所として、賊兵の喉元を押さえ付けるのです。
また、賛成しなかった。
また、頼んだ。
陝州の大陽の港から、黄河を渡り、向かいの河東地方の太原倉の粟を食べ、諸道を共に進みましょう。
この案は、受け入れられた。
袁晁が、信州を手に入れた。
冬、十月、
袁晁は、温州と明州も手に入れた。