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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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皇太子・李豫即位

宝応元年(762年)

四月五日、

上皇・玄宗が神龍殿で崩御した。

年齢七十八才であった。


四月六日、

玄宗の遺体を太極殿に移した。

玄宗は、病気で床に伏していたのだ。

崩御の発表は、内殿でなされた。

臣下たちは、発表を太極殿で聞いた。

蕃族の役人で、顔に筋目を付けて切ったり、耳を切り取ったりした者は、四百人以上いた。

回鶻で、可汗が死んだ時、公主が自ら、顔に刀で傷を付けさされた儀式を思いだす。

死者を悼む、蕃族の礼なのだろう。


四月七日、

苗晋卿に、この葬礼の冢宰ちょうさい(百官を率いる役)を兼ねるよう命が下った。

粛宗は、この二月頃から、病気で床に伏していた。

上皇様の死をお聞きになり、哀しみ、想い慕った。

だからか、病が急に悪くなった。

皇太子・豫に、監国(国の政治をする事)の命が出された。


四月十五日、

改元は、“宝応”そのままで、再び寅の月を正月とするよう、今まで通りとした。

天下に、恩赦を施した。


かつて、張皇后と李輔国は、お互い表裏一体となって、事につけ、権力を行使していた。

最近は、二人の間に溝が出来ていた。

二人は、主導権を争ったのだ。

内射生使、三原の程元娠は(宦官で、また、禁軍の弓の射手でもあり、)李輔国の一味であった。

粛宗の病が重くなり、皇后は、皇太子・豫を召して、云った。

李輔国は、久しく、禁軍の兵士を支配している。

“詔”だといつわって、兵士を従えて、聖皇・玄宗様の居所を強制的に移し替えた。

その罪は、とても大きい。

そんな、李輔国を嫌う者は、我と皇太子であろう。

今、陛下は、病が重い。

そんな時、李輔国と程元振が陰で、謀反をくわだてている。

悪者たちだ。

当然、殺さない事はないであろう。

皇太子・豫は、

父親の病の事だけで心が一杯なのに、そんな時、人を殺したら、ばちが当たり、父上が早く亡くなるような気がします。

と、泣いた。

そして、云った。

陛下の病は、とても危険です。

二人は、皆、陛下のふるくからの、功績ある臣下です。

殺すなど、とても告げられません。

必ず驚かせる事になり、耐えられ無いのではないか、と、恐れます。

そうだな。

そなたは、とりあえず帰りなさい。

後は、我がゆっくり考えよう。

皇太子・豫は、出て行った。

張皇后は、言いなりにならない皇太子に見切りを付けて、次男の越王・係を呼んだ。

皇太子は、軟弱者だ。

賊臣を殺せないなんて。

そなたは、出来るか?

代わりの皇帝候補として、操りやすいか、探ったのである。

出来ます。

越王・係の命で、気を通じた段恒俊を長として、力のある宦官を二百人以上選ばせ、武具を渡し長生殿の後に潜ませた。

意のままになる、次の皇帝候補は、決まった。

邪魔な皇太子を消さなければと、張皇后は思った。


四月十六日、

皇后は、陛下の命令だと偽って、皇太子を召した。

程元振は、その謀り事を知り、李輔国に密かに知らせた。

李輔国は、伏兵を陵霄門で待たせた。

皇太子が着いた。

李輔国は、

張皇后が、表に出ずに唐を支配しようとして、趙王・係を味方にしました。

趙王を、即位させようとしています。

皇太子の命が危険です。

と、告げた。

皇太子・豫は、云った。

必ず、何事もありません。

陛下は病が重く、我を呼んだのです。

我は、行かなければなりません。

どうして、死をおそれましょうか!

程元振は、

国家の事は大切です。

太子、命を狙われるかもしれません。

趙王が、皇后と一緒にいます。

皇后は、趙王・係に、皇帝にならないかと、聞いた筈です。

必ず、部屋に入ってはなりません。

危険です。

と、云った。

李輔国は、皇太子・豫を、飛龍厩にまで兵士に送らせた。

そして、武装した兵士に守らせた。

その夜、李輔国と程元振は、編成した軍隊を三殿に遣わし、越王・係と段恒俊と内侍省の朱光輝等百人以上を捕らえ、牢に入れた。

百人以上の者が武装して、長生殿の後ろに潜んでいたと知り、皇太子・豫は、李輔国に助けられたと、思った。

捕らえた者たちを取り調べた。

皇太子を殺し、替わりに趙王・係を、次の皇帝としようとした謀り事が、暴かれた。

皇后を別殿に移した。

その時、粛宗は、長生殿で寝ていた。

使者が皇太子の命令だと、無理やり、皇后を下殿に連れて行った。

合わせて、左右数十人の者が後宮に幽閉された。

宦官、宮人、皆、驚いて逃げ去った。

四月十八日、

皇帝陛下は、崩御した。

五十二才であった。

玄宗様の崩御の十三日後の事である。

李輔国たちは、皇后と、越王・係と、えん王・かんを謀反人として、殺した。

謀反に加担したかんは、忠王が皇太子の時の、皇太子妃の息子である。

母親が廃されなければ、嫡男と云われた皇子であった。

皇后は、予備として、えん王・かんにも、声を掛けたのかもしれない。


この日、李輔国は、喪服の皇太子と、九仙門で宰相と会った。

上皇様の死を拝して哭き、皇太子は、監国の仕事を始めた。




四月十九日、

粛宗の死が、両儀殿で発表され、遺詔が読まれた。

いにしえからの“柩前即位”をするようにと、述べられたはずである。

前漢・武帝の崩御の時からの儀礼である。

少斂しょうれん(死者の服装を調える)大斂だいれん(死者を柩に入れる)の儀式終えると、皇帝の柩は正殿の二本の柱の間に安置される。

この柩前に置いて、三公(大尉、司徒、司空)が、“尚書”の顧命篇を読奏して、皇太子は、まず、“天子”の位に即くのである。


説明が足らなかった。

“天子”は、周の時代には、すでに存在した。

秦の始皇帝が“皇帝”と、云う帝号を決めるまでは、“天子”だけが天の子供として、地上の支配者であった。

始皇帝が六つの王朝を滅ぼし、一つにした功績は大きい。

その功績に相応しい名称を三人の重臣は、“天皇”、“地皇”、泰皇 “と、提案した。

そして、一番貴い“泰皇”を勧めたと言う。

すると、始皇帝は、

“泰”を取り去って、“皇”を残し、昔からの“帝”位の号を採用して、“皇帝”としよう。

と、したのである。

当時の感覚では、皇ー帝ー王ー公の尊号の序列があった。

だから、王より尊いのは、上の序列の帝で、王の上に付けて、帝王。

その考え方を始皇帝は応用したのである。

(上の序列の皇を、帝の上に付けて皇帝。)

話を戻そう。

天子の即位式の時、大葬の最中なので、列席者は喪服を着ている。

この天子即位の儀式は、凶礼中の一儀礼として行われるのである。

その後、三公は天子になった皇太子に皇帝の位にいて欲しいと奏請する。

この奏請がきき入れられると、群臣、皆、退出して、喪服を吉服に着がえて、再び、列席する。

そこで大尉は、正殿の階段を上がって、崩御した皇帝の柩に向かって拝礼をして、皇太子を皇帝の位に即ける策命を奉読する。

そして、伝国の璽綬じじゅを持って、東に向きをかえ、ひざまずいて、皇太子に授ける。

これで、皇太子は、皇帝の位に即いた事になるのである。

この時、中黄門の官の者は、皇帝が常に身辺に所持する宝器である玉具、随公の珠、斬蛇の宝剣(高祖劉邦が白帝の子の化身である蛇を斬ったと伝えられる宝剣)を大尉に授ける。

これは、新皇帝が大尉を信任する事を示すものであると云う。

新皇帝即位の事が列席の群臣に告げられ、そこで、群臣は、万歳を呼称する。

以上で皇帝即位の儀式は終了し、天下に大赦が告げられる。

そして、皇帝即位の儀礼に参列していた群臣たちは退出し、再び、喪服に着替えて、大行皇帝(崩御されて、まだおくりなを付けない間の皇帝の称)の喪葬儀礼が続けられるのである。

これが、柩前即位である。

ここでは、“天子”として、“皇帝”としての二つの即位がある。

蛮夷と祭祀に関する事を天子の役割りとし、政治で支配する事を皇帝の役割りとし、天子と皇帝はお互いの役割りを分け、また重ねあいながら、時と場合に応じて使い分けていたのである。


四月二十日、

代宗は、皇帝・天子となった。



(西嶋定生先生の説を使わせていただきました。)




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