とう景山の死
宝応元年(762年)
建寅月、(一月)
一月四日、
上皇・玄宗の長子、靖徳太子・そうを、追尊して“奉天皇帝”とした。
妃の竇氏を“恭応皇后”とした。
一月十七日、斉陵に葬った。
長子・李そうに、皇帝号を贈る事は、玄宗と約束していた。
先日、会った時、玄宗が随分弱っていたので、良い話を聞かせ、少しでも元気になってもらいたかったのである。
だから、急遽、追号ではあるが、兄上・そうの皇帝任命となったのである。
上皇・玄宗に伝えたら、元気なく笑ったが、頬に赤みが差した。
もっと早くしたら良かった、と思った。
玄宗も、我も、体調が悪い。
皇太子の豫に、気を付けるように言わなければ。
こんな、落ち着かない王朝を託すのかと思うと、申し訳なく思う。
だが、あの子は、生まれながらの天子だ。
あの子なら、唐を元の姿に戻してくれるだろう。
一月二十四日、
吐蕃が、講和のための使者を寄越した。
李光弼が、許州を落とした。
史朝義の部下のえい川郡の太守・李春を捕らえた。
史朝義の将・史参が李春を奪い返した。
一月二十六日、
城下で戦ったが、また史朝義の軍を破った。
一月二十八日、
平盧節度使の侯希逸が、山東地方を縦断し、黄河を渡り青州に行き、そこから、えん州で田神功と能元皓に会った。
平盧節度使を出てから、敵に会っては、勝ち進んで青州まで来たのだ。
誇りに思っていい事だ。
租庸使・元載は、
江、淮地方は、兵士たちが来て、荒らしたと云うけれども、そこの民は、他の諸道に比べたら、なお資産を持っている。
と、云った。
帳面を調べると、この八年、租(年貢米)、調(その地方の特産品)の税は、負債・借金ではなく、ちゃんと払えている。
おまけに、捕らえられるのを避けて逃げる者もいる。
計算すると、大きな数字になり、取り立てられる。
権力のある役人を選んで県令とし、調べさせよう。
負債の有無、身代の高下は、聞かなくていい。
民で、粟や絹を持っている者を明らかにし、兵士を出し囲ませよう。
税の取り分は、その者の持っている物の半分だ。
だが、ひどい奴は、十の内八、九を取る。
これが、白著(規定額以上に不当に取り立てる税)と云う事だ。
官吏の務めは、民から、税を剥ぎ取る事である。(租税納入を引き受けた人が、中間で搾取をしても、問題はない。)
不服のある者は、厳罰で脅したらいい。
民には、穀物を十斛蓄えている者がいる。
重い足取りで、命令を待たせたらいい。
役人は、税の納入を、威圧と力ずくでしようとする。
そんな、朝廷のやり方に、民だって、いつまでも我慢はしない。
山に人々が集まって、群盗になるかどうか、相談していた。
州県がいくら規制しても、制御出来なかったと云う。
かつて、王思礼は、河東節度使であった。
馬の秣を入れる倉にまで、財物が溢れていた。
米は、百万斛も積んであり、その内、五十万斛は、粛宗に請うて、京師に送っていた。
王思礼が、亡くなった。
その後、管崇嗣が後任となった。
御所にお尻を向けたり、戦に行くのに、元帥より先に馬に乗ったりしていた礼儀知らずの男である。
管崇嗣は、就任すると、政事は左右の者に委せて怠け、おまけに、人気取りのために財物を周りの人に贈ったりした。
数か月の内に、倉庫には紅く腐った米が一万斛ちょっとあるだけになった。
粛宗は、それを聞き、管崇嗣をやめさせ、とう景山を代わりとした。
とう景山、
あの劉展に勝つために、田神功に袖の下を渡した男である。
その為、江、淮地方は、荒らされた。
とう景山は、家族を連れて来ていた。
子弟たちには、粗食過ぎないように、ご馳走を食べさせ、使う器は、烏のような真っ黒な漆を塗った物であった。
客を呼んだ時は、豚肉だけで、魚は無かった。
倉の紅い腐った米を手に取り、皆に、食べるように云った。
貰った部下たちは、恨み、謗った。
とう景山は、云った。
何、これを食べない。
そなたたちは、軍人じゃないのか?
驕り、罵った。
兵士たちは、皆、恥じたが怒っていた。
とう景山は、規則を厳しくして、その規則を振りかざした。
将兵の内の一人が、規則で死に当たる罪を犯した。
他の将兵たちは、各々、その罪を償いたいと頼んだ。
だが、とう景山は、許さなかった。
その弟が、兄の身代わりになりたいとしたが、とう景山は、また、許さなかった。
考えた弟が、馬を一頭、兄の罪の償いにしたいと云った。
とう景山は、死の罪を減ずるとして、許した。
将兵たちは、怒り出した。
そして、云った。
我ら、人の命は一頭の馬より軽いのか?
将兵たちの怒りは治まらず、遂に、反乱が起きた。
二月三日、
とう景山を殺した。
河東節度使の乱に至った話を聞いた粛宗は、とう景山の節度使でのやり方に問題があったとした。
乱を起こした者については、もう追及しないとした。
使者を遣わして、その軍が安らぐように、慰め諭した。
軍中から、次の節度使は、都知兵馬使、代州刺史の辛雲京がいいと、声が上がった。
辛雲京、
王思礼に罰を与えられるところを、王思礼を助けた部下・張光晟に救われた男である。
粛宗は、兵士たちの希望に従った。
そこで、辛雲京が河東節度使になった。
辛雲京は、恩人である張光晟を自分の後任の代州刺史とするよう、上奏した。