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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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劉晏の才能

冬、十月、

江淮都統・崔円は、李蔵用を楚州刺史にすべく、任命した。

劉展の乱後、諸将が功績を争っていた。

李蔵用は、未だ、賞されていなかったからの配慮であった。

前、江淮都統・李こうは、太宗の第三子・李恪の孫であった。

劉展の乱の後、責任を問われたのであろう。

揚子江の南の袁州司馬となった。

田舎である。

その地、袁州で、病気で死んだと云う。

劉展の乱が終わって、支度租庸使が諸州の倉庫で使った物が、等しくないから調べたいと、書状を奉った。

その時、倉庫では、あわてて兵を募集した。

多くの物が散らばり、無くなっていた。

足らなくなった物を見つけようとした。

諸将は、しばしば、自分の財物を売って償いに当てようとした。

李蔵用は、自分に追及が及ぶのを、恐れた。

かつて、人に云った。

とても、後悔していると。

李蔵用の副将・高幹は怨みから、話を広めた。

人を広陵に遣わして、李蔵用が謀反を起こした事を告げた。

そして、先ず、兵を使って襲わせた。

李蔵用は、逃げた。

高幹は追いかけ、李蔵用を斬った。

崔円は、遂に、李蔵用の諸史たちを調べ、証拠となる文書に基づいて、責任を問い正そうとした。

将史たちは、怖れた。

皆で書状を作って、寄せ集めた。

独り、孫待封だけは、謀反を起こしていないと、固く云った。

孫待封、

張法雷と一緒に(官軍と知らずに、)とう景山と戦った人物である。

崔円は、引き出して斬るように、命じた。

そして、云った。

そなたは、兵士たちの生きたいとする求めに、何故、従わないのだ!

孫待封は、云った。

我は、最初、劉大夫(劉展)に従った。

詔の書状を奉って、広陵に来たからだ。

他人は、我の事を謀反を起こしたと云う。

李公(李こう)は、兵を挙げて、劉大夫を滅ぼそうとした。

今は、また、李公が謀反を起こしたと云う。

かくの如く、すなわち、誰が謀反を起こした者か、者でないか、どうして極める事が出来るのですか!

我は、むしろ、もう死にたい。

罪でなければ、人を欺くなんて出来ない。

崔円は、孫待封を、遂に斬った。

子月(11月)一日、

(十一月を年の始まりとしたので)

粛宗は、いつもの正月の如く、朝賀を受けた。


鴻臚卿・康謙が、燕王朝の史朝義と通じていると、ある者が告げた。

事に関わったのは、司農卿・厳荘であった。

二人とも、牢に繋いだ。

京兆尹の劉晏が、厳荘の家を守るために、役人を遣わした。

粛宗は、厳荘を牢から出して、会って尋ねた。

厳荘は、劉晏を恨んだ。

云うことには、劉晏と厳荘は、宮中で、“人が常に守るべき道”について語ったとの事。

だが、功績を誇ったならば、粛宗に嫌われるであろう、と。

だから、目立つ事は、してほしく無かったと。

十一月六日、

劉晏は、通州刺史に貶められた。

厳荘は、難江の尉に任じられた。

康謙は、秘かに殺された。


十一月七日、

御史中丞の元載が、戸部侍郞、度支、鋳銭、塩鉄、兼、江淮転運使などに任じられた。

(塩鉄使ー唐において、第五きが、初めて、塩鉄使となった。前漢の武帝の時代に塩鉄の専売が行われるようなり、名称は、“塩鉄官”であった。塩鉄なので、塩と鉄を扱った。だが、唐の場合は、塩だけで、鉄は専売ではなく扱っていない。“塩鉄使”と称しているが、本当は、“塩使”である。)

元載は、最初は、度支郞中であった。

さとくて、良い対策を上奏した。

粛宗は、その才能をこよなく愛した。

李輔国の手前、能力のある人物であると、元載を褒めたのである。

江淮漕運も任せた。

数か月、経った。

劉晏に通州刺史を辞めさせ、元載の後任にした。

やっぱり、他の人に任せて見て、劉晏の才能に、気付いたのである。

この時、劉晏は、たくさんある肩書きの中から、戸部侍郎の地位を顔真卿に譲っている。

塩鉄転運使の仕事が忙しいので、親しいわけではないが信頼できる人物を選んだといえる。

巡院を各地に作り、専売が徹底するようにし、漕運業務も扱った。

担当の部下たちは、仕事ができるだけでなく、教養も豊かな人物が選ばれた。

その者たちが、各地で得た情報をすぐに政策に反映したという。

第五きが行った塩の専売法は、塩の生産から、買い上げ、運搬、販売まで、すべて、政府が管理する“官売法”を採用した。

だが、劉晏は、塩の運搬、販売を商人に任せ、商人から塩税を徴収する“通商法”を導入した。

そして、塩税収入は、江南から長安に送られる租米の輸送費用に当てた。

漕運の復興と首都圏にむけた補給体制が進んだ。

これらの業務は、塩鉄転運使が担った。

転運使は、裴耀卿が漕運改革を行った際に設けられた使職で、各地から、長安、洛陽に官物、税物を輸送する水運の管理、漕運業務を統轄する。

詳しくいえば、河の交差点にある中継倉の管理、荷の積みかえ、運河の浚渫、運送船を引く労働力調達など、漕運に関するすべての業務を統轄するのである。

劉晏は、初めて、塩の専売利益を使って、漕運労働者を雇った。

これまで、租米を長安まで運ぶのは、形式上農民であった。

租、庸、調の、税制の中で、庸(力役)は、年間二十日、課せられている。

無料で労働力は得られたのである。

だが、劉晏は、江淮地域から、渭橋倉まで輸送労働者を雇ったのである。

庸役を使わなかったことで、郡県の役所を煩わさなかった。

劉晏は、従来ならば、農民を徴発して、無償労働にあてていた労役から、雇用労働に切り変えたのだ。

中国史上、国が労働に対し、民に対価を支払うのは、初めてのことであった。

唐の土地は広い。

山の中でも、長安と同じ値段で、塩が買えるように、常に配慮していたという。


劉晏の才能に気づかいた粛宗は、劉晏には、もっぱら、財利(国家の収入を殖やす事)を委せた。

塩鉄使が、漕運を兼務することは、劉晏から始まったという。

塩鉄転運使は、権力を行使できた。

宰相に次ぐ、実質的地位を得て、“準宰相”と呼ばれたという。

十一月十七日、

冬至の日である。


十一月十八日、

粛宗は、西内を訪問して、上皇・玄宗にお会いした。

周りには、親しい人が居なくて、寂しい想いをしていたであろう。

やっと、息子が会いに来て呉れたのだ。

あれから、れだけの、時間が経ったであろう。

二人は、手を取り、皇帝なのに、思うようにならない毎日に、泣いたであろう。

この頃、玄宗は、体を悪くしていた。

それを見て、粛宗も元気を無くしたであろう。

二人に残された時間は、あまりない。


神策節度使の衛伯玉が、史朝義の軍を攻撃した。

永寧県を落とし、べん池県、福昌県、長水県等を破った。


十一月二十八日、

粛宗は、太清宮に、お詣りし、方物を貢献した。

十一月二十九日、

粛宗は、太廟と元献廟に、享献した。

元献廟は、粛宗の母親、元献楊后の廟である。


十二月一日、

えん丘に、太一の壇をまつった。


平盧節度使の侯希逸と、范陽節度使は、毎年、お互い攻め合っていた。

忘れられたように、もう、助けは来なかった。

また、奚が侵入した。

平盧節度使の全ての兵士、二万人以上で、范陽節度使の李懐仙を襲い、破り、そのまま、兵士と共に南に向かった。





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