令狐彰
この頃、洛陽の四方数百里の州、県は、皆、荒れ果てていた。
そして、史朝義の所轄の節度使を治める者は、安祿の旧将と、史思明が選んだ蕃族の者たちであった。
史朝義はこの者たちを呼んだが、ほとんど来なかった。
お互い束縛しないように治めようとしたが、上手くいかなかった。
李光弼は、今回の戦に敗けた罰を受けようと、強く自分を貶めるように、粛宗に書状を奉った。
開府儀同三司、侍中の官職と、河中節度使を治めるように詔が下った。
長塞鎮の将であり、術士の朱融は、嗣岐王・珍と親しかった。
嗣岐王・珍は、叡宗の四男で、玄宗の弟、李範の息子だった。
嗣岐王・珍は、太っていて体が大きく立ち居振る舞いが、上皇・玄宗に似ていると、かつて、朱融は云った。
朱融は、左武衛将軍・竇如ふん等と嗣岐王・珍に、乱を作る謀り事を奉った。
気持ちを知ろうとしたのだ。
朱融は、出かけて行って、金吾将軍・けい済に云った。
潼関の外だが、近くに侵入しようとする者がいる。
長安は、慌ただしくなるな。
どうする?
けい済は云った。
我は、金吾、
天子の護衛の長。
天子を守り、天子の生死に従うのみ。
不安なら、脱出したら?
朱融は云った。
嗣岐王・珍は、思慮が無い。
けい済は、これまでの事を聞いた。
粛宗に報告した。
夏、四月一日、
粛宗は、李珍を廃して、庶人とした。
しん州に置くようにしようとしたが、今の時期、兵士に余計な手間はかけられない。
結局、殺した。
その一族も、皆、殺された。
四月二日、
左散騎常侍・張鎬が、辰州司戸に貶められた。
張鎬は、かつて、李珍の屋敷を買った事があった。
繋がりを疑われたのか?
けい済は、桂管防禦使に抜擢された。
四月五日、
吏部侍郎・裴遵慶を黄門侍郎、同平章事とした。
四月二十一日、
青密節度使・尚衡が、史朝義の兵を破った。
斬った首、五千級以上。
四月二十三日、
えんうん節度使・能元皓が史朝義の兵を破った。
四月二十八日、
梓州刺史・段子璋が謀反を起こした。
段子璋は、勇敢で、上皇・玄宗に従い蜀に行き、功績があった。
東川節度使の李奐が、段子璋を交替させるように云った。
だから、段子璋は、挙兵したのだ。
綿州で、李奐を襲った。
恨んでいるのだ。
段子璋は、道を進み、遂州で刺史、かく王・巨が、治める郡に着いた。
かく王・巨は大慌てで、礼をもって迎えた。
礼をもってとは、卑服で迎えたと云う事のようだ。
わざわざ、粗末な服を着て出迎えたのだろう。(今の感覚からすれば、かえって、失礼な気がするが?)
段子璋は、かく王・巨を殺した。
李奐は戦ったが、敗けた。
成都に逃げた。
段子璋は、自ら、梁王と称した。
改元して、“黄龍”とした。
綿州を“龍安府”とし、百官を置いた。
また、剣州を手に入れた。
五月五日、
李光弼が、河中節度使から参内した。
かつて、李輔国は、張皇后と一緒に、上皇を西内に遷す謀り事を考えていた。
この日は、端午の日。
山人の李唐が粛宗に会いに来た。
見ると、粛宗は幼女を抱いていた。
粛宗は、李唐に云った。
朕は思う。
卿はまことに、怪しい。
対して、李唐は、
太上皇様は、陛下に会いたいと思っています。
陛下が、抱かれている公主様を愛しいと思うように、上皇様も、また陛下を思っています。
粛宗は、泣いた。
涙が下にこぼれた。
しかし、やはり張皇后が怖くて、あえて、西内にいる上皇・玄宗に会いに行かなかった。
抱いている公主は、七人の公主の内、一番下のこう国公主であろう。
五月九日、
党項が、宝鶏に侵入した。
かつて、史思明は、博州刺史・令狐彰を滑州、鄭州、卞州の節度使とした。
まさに数千の兵の将として滑台を守らせたのだ。
令狐彰、
令狐彰の先祖は、元々は、敦煌の出である。
唐王朝では、長安に戸籍がある。
父親は、善い官吏とされた。
范陽の尉となり、赴任して、幽州の民家の女子と懇ろになり、彰が生れた。
范陽の尉を罷免され、帰って行った。
父親は、帰る時、長安に連れて帰ろうか、どうか、葛藤があったであろう。
だが、幽州の草原で蕃族の子供等と、走りまわる彰を見て、何が子供にとって幸せか、悩んだであろう。
長安が、閉ざされた階級社会である事が、子供に良い影響を与えるとは思え無い。
庶民出身の母親は、側妻とされ正妻にかしずき、子は庶子とされ、嫡子と差別される。
母子の屈託のない笑顔が、失われるだろう。
父親が、母子を幽州に置いた理由であろう。
後に、令狐彰が“名節”を考えた事からも、ちゃんとした教育を受けていたと考えられる。
科挙に落ちた人物が、節度使には事務員として多くいる。
人柄を選んで、学問の師としたのであろう。
父親は、万全の用意をして去ったのだ。
捨てた訳では無い。
だから、令狐姓を名乗っている。
ちゃんと、戸籍に入っているのだ。
手紙も来て、息子の返事を催促したであろう。
教育の成果を見るために。
令狐彰は、母親と范陽に置かれたままであった。
だが、家族から受ける屈辱からは、無縁であった。
令狐彰は、幽州生まれの、幽州育ちであったのだ。
だから、幽州の統治者・安祿山に仕えるのは、自然の成り行きであったと云える。
ただ、本を読み大義を知り、騎射を得意とした。
今は、史思明の下、節度使を勤めている。
最初、令狐彰は、今の地位に感激した。
だが、“名節”と云う言葉を思った。
名誉と節操である。
かつて、安祿山の下にいても、自分は唐の役人であった。
だが、今は、賊軍であり、官軍ではない。
父上とは、同じではない。
会ったこともない兄弟とも、違う。
このままでいれば、何れ身内に、戦で刀を突き付ける事になるだろう。
そんなの、嫌だ。
家族と同じになりたい。
帰順したいと、思った。
令狐彰は、秘かに、中使の楊万定に会って、気持ちを伝えた。
杏園度に駐屯した。
河の渡し場である。
兵士たちに自分の気持ちを伝え、兵士たちの判断を待った。
我が、主を選べず、上司に従ったように、兵士たちだって同じだ。
去っていく我に、従わなくていいのだ。
好きにしたらいいのだ。
史思明は、河の渡し場に駐屯した、令狐彰を疑った。
配下の将、薛岌を遣わせ、囲ませた。
令狐彰は、薛岌と戦った。
兵士たちも、令狐彰と行動を共にしたいと、思った。
だから、兵士たちは死力を尽くした。
令狐彰は、大破した。
勝ったのだ。
夜、兵士たちと、唐に向かって、河を渡った。
兵士も馬も州県も悉く、粛宗に献上された。
粛宗は、大喜び。
直属の兵士数百人と一緒に、入朝した。
五月十日、
令狐彰は、滑州、衛州、相州、貝州、魏州、博州の六州の節度使になった。
褒美として、第一級の屋敷を賜った。
中の装備も帷、器にいたるまで、良いものであった。
これで、心おきなく、いつでも兄弟に会える。
嬉しかった。
五月十四日、
平盧節度使の侯希逸が、史朝義の范陽の兵士を撃ち、破った。
五月十一日、
西川節度使の崔光遠と東川節度使の李奐が共に、綿州を攻撃して落とした。
段子璋を斬った。
再び、李光弼が河南副元帥、大尉兼、侍中、都統河南、淮南東・西、山南東、荊南、江南西、浙江東・西八道行営節度となり、淮水に臨む処に兵営を作り、出ていった。