子儀と光弼・兵士の対応
けい南節度使の呂しんが、
湖南の潭州、岳州、彬州、邵州、永州、道州、連州は、黔中のふ州で、皆、けい南の物です。
けい南節度使に従うようにさせて下さい。
と、上奏した。
二月、奴刺と党項が、宝鶏に侵入した。
大散関を焼いて、南から鳳州に侵入して、刺史の蕭ていを殺した。
鳳翔節度使の李鼎が追いかけて、これを撃ち破った。
二月十三日、
白羅王・金嶷が、入朝した。
宿直をして、護衛をする人を頼んだ。
ある人が云った。
城中の将兵たちは、皆、燕人です。
(燕とは、史思明の国である。“燕”と云う国は、昔からある。 いわゆる、幽州、范陽、平盧、渤海と呼ばれるあたりの地方にあった王朝が、よく、そう名乗った。かつてあった国と重なるから、どこらあたりにあるか、判りやすい。それもあって、安祿山も史思明も、“燕”と云う名称を選んだのだろう。だから、燕人と云っても、史思明の部下と云うことではない。)
守備兵たちは久しく長安に居るから、故郷に帰りたいと思っているだろう。
上司と部下の心は離れ、攻撃され、打ち負かされることもあるかもしれない。
陝州観軍容使の魚朝恩は、信じているかのように、度々、粛宗に云った。
陛下は、李光弼に洛陽を取るように、詔を出すべきです。
その話を伝え聞いた李光弼は、粛宗に口頭で上奏した。
賊軍の前軍は鋭くて、いまだに、身軽に進みます。
朔方節度使の僕固懐恩は、勇敢であったが、頑なであった。
直属の部下たちは、皆、蕃族、漢族の強者たちであった。
功績を恃んで、多くの規則違反をした。
郭子儀は、穏やかで寛容な心でその欠点を受け入れていた。
兵を用いる時は、その時の敵に対する度に、集まり対策を語り、頼り合っていた。
李光弼は、厳しい性格で、裁く時は、法のみで決めて大目に見ることは無かった。
僕固懐恩は、李光弼が気を悪くする事を怖れたが、洛陽を取れるかという話には、魚朝恩の考えに付いた。
魚朝恩に付くから、後任の人に宦官が続くのだ。
李光弼が軍隊を出しますと、止めることが出来ません。
河陽を守っている鄭陳節度使の李抱玉と僕固懐恩の将兵と、魚朝恩と神策節度使の衛伯玉で、洛陽を攻めるようになります。
九月二十三日、
ぼう山で兵士たちを並ばせた。
李光弼は、地面が険しい処で並ぶように命じた。
僕固懐恩は、平原に並ばせた。
李光弼は云った。
険しい処を選ぶのは、則ち、進むことも出来、退くことも出来るからだ。
もし、平原なら、身を隠しようがなく、標的になり戦には不利だ。
戦はすぐに終わるだろう。
史思明は、滅びない。
険しい処に移るように命じた。
僕固懐恩は、また止めた。
人の並んだどの列に、史思明が馬に乗って通るかは分からない。
兵を歩かせたが、兵の間隔がスカスカで人口密度が薄かった。
これでは、賊軍に襲いかかれない。
襲う前に、襲われるだろう。
官軍は、大敗した。
死者、数千人。
軍の財産である、器械は全て棄てた。
逃げなければならなかったからだ。
李光弼、僕固懐恩は、黄河を渡り聞喜に走った。
魚朝恩、衛伯玉は、陝州に走り帰った。
李抱玉もまた、河陽城を棄てて走った。
河陽、懐州は、皆、賊軍に取られた。
朝廷は、この戦の結果を聞いて、大いに怖れた。
陝州に駐屯する兵士を増やした。
李揆は、呂しんと同時期に宰相をしていた。
お互い喜ばなかった。
相性が悪かったのだろう。
昨年、呂しんは宰相を辞めていた。
呂しんは、けい南にいた。
そこで、政事を良く聞いていた。
李揆は、呂しんがまた宰相になるのではと、怖れた。
李揆は、上奏して云った。
揚子江の南にある、洞庭湖の南は不便なので、軍隊を置いたらいいでしょう。さ
また、陰で人を使って、呂しんのいるけい州、湖州で呂しんの過失を探させた。
呂しんは、李揆の罪を箇条書きにして、粛宗に訴えた。
二月二十八日、
李揆は袁州長使に貶められた。
そこで、河中節度使の蕭華を中書侍郎、同平章事とした。
李揆の後任の宰相である。