劉展の死
上元二年(761年)
正月、一月五日、
史思明が改元をして“応天”とした。
張景超が、兵を率いて、杭州を攻めた。
石夷門において、李蔵用の将・李疆を破った。
孫待封は、自ら、武康の南から出て、まさに張景超が杭州を攻めようとした時、温晁が、険しい地を利用して孫待封を功撃して負かした。
孫待封は脱出して、烏程に逃げた。
李可封は、そこで、常州に投降した。
一月二十一日、
田神功は、功績のある楊惠元を将とした千五百人で西にいる王こうを襲った。
一月二十五日の夜、
田神功は、先に使わした、手柄のある范知新を将とした四千人を、白沙から揚子江を渡らせ、下蜀の西に行かせた。
とう景山を将とした千人は、海陵から揚子江を渡り常州の東に行った。
田神功とけい延恩は三千人の兵士たちと、瓜州にいた。
一月二十六日、
兵士たちは、揚子江を渡った。
劉展は、歩兵、騎兵一万人以上で、蒜山に並んだ。
田神功は、兵士を船に乗せ“金山”に向かわせた。
金山とは、揚子江の河の中にある中洲である。
強い風に起こった。
五隻がつむじ風で、金山の下でぶつかった。
劉展は、その内二隻をめちゃくちゃにした。
残りの三隻を沈めた。
田神功は、河を渡れ無かった。
軍と共に瓜州に帰った。
范知新たちの兵は、下蜀に着いた。
劉展は、そこを攻撃した。
だが、勝てなかった。
展の弟・殷が、兵を連れて海に逃げるよう勧めた。
いく月か延ばせるだろう、と。
劉展は、云った。
早く済まさなければ、親子で多くの人を殺すことになる!
何れにせよ、“死”あるのみ。
我の死で、この戦いは終るのだ。
遂に、兵を率いて、さらに力強く戦った。
将軍・賈隠林は、劉展を矢で狙った。
矢は眼に当たり、劉展は倒れた。
劉殷が助け起こそうとしたが、周りにいた敵が切り付けた。
呟いた。
やっと、寝れる。
逆臣は、嫌だ。
劉殷、許えき等は、皆、死んだ。
劉展を射た賈隠林は、かつ州の人である。
楊惠元たちは、淮南で王こうを撃ち破った。
王こうは兵を引き、東に逃げた。
常熟に着いた。
そこで、投降した。
孫待封が李蔵用を訪問した。
そして、投降を告げた。
張景超は、七千人以上の兵士を率いていた。
劉展の死を聞いた。
全ての兵を、張法雷に渡した。
杭州で戦うのに使うように、と。
そして、張景超は、海に逃げた。
張法雷は、杭州に着いた。
李蔵用は、撃ち破った。
残党は、皆、平定された。
これで、劉展の乱は終わった。
仲間たちは、劉展が生きている間は、仲間として劉展の味方として戦うと、劉展に義理立てをしていたのだ。
平盧節度使の軍は、十日以上、淮南地方にいて、略奪の限りを尽くした。
劉展を殺したご褒美だ。
約束は守ったから、そちらも、約束を守れよ、と。
淮南、東道節度使のとう景山が、賄賂として、略奪を許したから、防ぎようが無いのである。
その地を治める人物の言葉である。
回鶻に洛陽での略奪を許した粛宗と、同じ構図である。
安・史の乱での、兵士たちの略奪などの乱暴は、江・淮地方には、今までは及ぶことはなかった。
略奪した者は、ここに来て、この地の民から略奪する、中毒になり始めたと、思える。
美味しいお茶と同じように、
豊かな民のいる、美味しい土地だと。
江淮地方の略奪は、病みつきになったようだ。
この劉展の乱、
江淮地方の内輪もめではあるが、ある転換点となった。
昨年、十一月、
史思明が、四つに分けた軍隊一万五千人を南下させた。
一つは、淮南に向け、(寿州の近くである。)
一つは、陳州に向け、(淮水と卞州の真ん中あたりにある。当然、淮水の北側である。)
一つは、えんうんに向け、(えんうんはえん州にあると思える。えん州には、広陵城がある。)
一つは、曹州に向け(朴州の西にある。劉展がいた、宋州に近い。)
少し、離れた処で様子を伺っていたのだ。
淮南の官軍の兵力が疲弊した処で、襲いかかろうと。
今までは、すい陽で張巡が賊軍を南下させないために、命をかけて守っていた江淮だ。
その江淮地方に誰の反撃も無しに、史思明は兵を進めたのだ。
今まで、豊かで、長安や洛陽の米蔵であった江淮が様変りしていく。
唐末、南方地方の豊かさを当てにして、唐は、搾取を続けた。
何か、物入りがあると江淮地方を当てにした。
だから、江淮地方の民衆から反乱が起きたのは、あまりに悲惨な生活ゆえ、下から起きた世直しだったのだ。
ただ、始まりは民衆とはいえ、組織が大きくなると、どうしても、戦いの知識をもった武将が中心となる。
でないと勝てない。
劉展の乱は、南方からの反乱の原点となったと云える。
(資治通鑑によると)劉展の乱で、劉展は戦の中で死んでいる。
だが、旧唐書、新唐書では、田神功に生け捕りにされ、長安に連れていかれ、伏誅されたという。
謀反人としての、公開処刑はなかったのだ。
事情を知る、粛宗の配慮を思う。
資治通鑑は、旧唐書、新唐書を基に書かれている。
だのに、“生け捕り”とは書かれてない。
ここの記述は、“劉展乱紀”によるとされている。
作者・司馬光の劉展への想いが見える。
長安に連れていかれるその道中、顔を見ようと、覗き込む野次馬たちの好奇の目を思うと、気の毒でならない。
謀反人とされた、被害者なのに。