玄宗・西内へ
七月二十五日、
乾元重宝重輪銭を五十文として使っていたが、以後、京畿と同じように三十文として使うよう、天下に命じた。
七月二十八日、
高力士は巫州に、王承恩は播州に、魏悦はしん州に流罪と決まった。
巫州も播州も、揚子江より、かなり南である。
そして、播州の方が西よりで、緯度は似ている。
罪の重い流罪と云える。
魏悦のしん州は、河南省にある。
黄河の南の地方である。
ただ、戦に巻き込まれないかが、心配である。
高力士の配地も王承恩の配地も、揚子江の南なので、その心配は一切ない。
陳玄礼は、改めて辞任となった。
如仙媛は、帰州に置かれた。
揚子江の北沿いの地である。
名前に“仙”が使われているのは、出家した道士なのだろう。
だから、同じ女道士の玉真公主と、玄宗の世話をしていたのであろう。
玉真公主は、興慶宮を出て、父親・叡宗に建ててもらった道観・玉真観に帰った。
粛宗は、さらに、後宮から百人以上を選び、普段使われていなかった西内を、掃除して清めるように備えた。
玄宗の娘である、万安公主と咸宜公主に、玄宗の服装に気遣うよう、食事を調え勧めるように、命じた。
後になり、道士である楚国公主も玄宗を気遣い、世話を見るようになった。
粛宗は、四方から献上される珍しい物、変わった物を、まず玄宗に薦めた。
しかし、玄宗は、日ごと楽しまなくなった。
高力士が側にいないのが、理由の一つかも知れない。
葦后を誅殺した頃、皇太子になる前から側にいた者である。
“高力士が側にいれば安心して眠れる。”と云い、高力士もその言葉に応えて、なるべく家に帰らないようにしていた。
お互い、永くて深い絆を持っているのだろう。
にら、ニンニク等、香りの強い野菜を食べず、五穀をさけ、そのまま病気になった。
粛宗は、最初は、玄宗の病気の様子を聞きに訪れていたが、粛宗も又、病気になった。
ただ、玄宗の様子を、人を遣って聞いた。
その後、粛宗は悔み、ようやく悟った。
悪いのは、李輔国だと。
殺したいと思った。
だが、李輔国の握っている禁軍の兵士たちが恐ろしい、
躊躇っていて、とうとう決められなかった。
かつて、哥舒翰が西関、磨環川の臨とうで吐蕃を破った時、その場所に神策軍を置いた。
神策軍は、吐蕃との領土を巡る境界線の事で常に、激しい戦いをしていた。
だから、内地の兵士たちとは、気概が違っていた。
殺るか、殺られるかの世界で生きていたのだ。
安祿山の謀反が起きるに及び、軍使・成如きゅうは、大将・衛伯玉に千人の兵士を率いて国難に対応するように、遣わした。
だから、神策軍のいた地は、兵士が少なくなって戦えず、すでに吐蕃が手に入れていた。
だから、衛伯玉は、元の地に帰れず、陝州に留まり駐屯していた。
いろいろ手柄を立て、右羽林大将軍になっていた。
八月十三日、
衛伯玉は、神策軍節度使となった。
八月三十日、
興王・しょうに、“恭懿太子”と、諡が、贈られた。
九月七日、
荊州に、南都が置かれた。
荊州は、江陵府となった。
永平軍、団練兵三千人が置かれた。
呉、蜀を押さえる要とした。
節度使・呂しんの頼みに、従ったのである。
ある時、粛宗が云った。
天下は、いまだ平定されていない。
郭子儀を、力のない地位に置いておくのは、良くない。
九月八日、
郭子儀に、治めているひん州を出るように命じた。
それを聞いた党項が、郭子儀を怖れて逃げ去った。
九月二十一日、
詔をした。
郭子儀は、諸道の兵士を統率して、朔方節度使から、直接、范陽節度使を取りに行くように。
禁軍の英武軍などの射手たちを共に連れて、河北地方を巡って平定せよ。
および、朔方、ひん寧、けい原の諸道の蕃族、漢族の兵士七万は共に、皆、郭子儀の指図を受けよ。
(この詔には、郭子儀に禁軍の兵士を率いるように、との件がある。李輔国から禁軍を取り戻すべく、まず、一角を崩すよう考慮した命である。)
命令を下して、十日、
魚朝恩が、再び、邪魔をして、事は遂に行われなかった。
粛宗は、皇帝なのに、思うようには、何も出来なかった。
冬、十月十九日、
青州、沂州などに、五州節度使を置いた。