興慶宮(南内)から太極宮(西内)へ
六月二十七日、
鳳翔節度使の崔光遠が、普潤で党項を破った。
平盧兵馬使の田神功が、史思明の兵を鄭州で破った。
上皇・玄宗は、興慶宮を愛していた。
だから、蜀から帰ると、直ぐに住み着いた。
粛宗は、時には、夾城に行って寝起きした。
粛宗は、玄宗とはこの一年以上、離れて暮らしていたので、少しでも近くにいたかったのだ。
生まれてから、会おうと思えばいつでも会える、そんな距離にいたからであろう。
玄宗は、暇な時に、大明宮に行ったりした。
左龍武大将軍・陳玄礼、内侍監・高力士は、久しく玄宗の護衛をしていた。
玄宗は、同腹の妹である玉真公主、元女官・如仙媛、内侍・王承恩、魏悦及び梨園の弟子を常に左右に侍らし、楽しんでいた。
お気に入りを周りに置くなど、これらは、皇帝・粛宗の気遣いであった。
口に出さずとも、揚貴妃を失った事を、少しでも、慰めたかったとも云る。
残りの人生を楽しんで欲しかったのだ。
玄宗は、多くの時間を“長慶楼”で過ごしていた。
御老人が、長慶楼の下の往来を通りすぎる時は、見上げ拝礼をして、“万歳”と声を上げた。
玄宗は、常に長慶楼の下に、酒や食べ物を置いて、その者たちに振る舞った。
又、将軍・郭英乂等を呼んで、長慶楼で宴を賜った。
剣南節度使から上奏するために来た事務官が、長慶楼の下を通り過ぎる時、拝舞をしたりした。
玄宗は、玉真公主、如仙媛に、屋敷の主人として、周りの者たちに配慮するように命じた。
李輔国は、元々、大した家の出ではなかった。
急に立派な身分になったと云えども、玄宗の周りの者は皆、昔を知っているので、軽く見た。
高力士にしてみれば、部下だった者だ。
李輔国は、恨んだ。
それに、今の恩寵をより確かな物にしようと、功績を立てたいとした。
そこで、粛宗に云った。
上皇様は、興慶宮にいらっしゃいます。
日々、外の人と往き来しています。
陳玄礼、高力士は、陛下を不利にする謀り事をしています。
今、六軍(北牙の事)の将士は、霊武の勲臣のみです。
皆、微かな不安を持っています。
我は、よく分かりませんが、諭しています。
聞かないようにしています。
粛宗は、泣いて云った。
聖皇様は、情け深い方である。
このようなことを、どうして認められようか!
李輔国は、云った。
玄宗様は、そのような気持ちが無くても、頑固です。
我々のごとき、小さい者になにができるでしょうか!
陛下は、天下の主です。
まさに、天下の大計のためです。
乱が消えても、いまだに、芽生えが有りません。
一人の男が孝行を求めるのに、どうして得られましょうか!
おまけに、興慶宮と外の者は、知り合いで往き来しています。
間の垣根は低くて壊れています。
だから、往き来するのです。
尊い方のお住まいを訪れるのは過ちです。
宮中は、深く厳かです。
お迎えして、宮中に居てもらいましょう。
聖なる耳を惑わす小人とは、往き来を止めさせられます。
このようにしたら、上皇様は、安心して、“万歳”を受けられるでしょう。
陛下も、三朝の楽を持てましょう。
どうして、嫌なのですか!
粛宗は、聞かなかった。
興慶宮には、これまで、三百頭の馬がいた。
李輔国は、偽の詔を出し、これを取り上げた。
残り、わずか十頭。
玄宗は、高力士に云った。
我が子は、李輔国に惑わされ、孝行の道を得られないだろう。
李輔国が、北牙六軍の将兵に命じた。
兵たちは命に従い、哭いて頭を地面に打ち付けて、
上皇・玄宗様を西内に住むよう迎え入れて下さい。
と、粛宗に請うた。
皇宮に於いて、大明宮は、唐が隋から譲り受けた時にはなかった物だ。
高宗様の体調が悪く、太極宮に住んでいて、この地の土地が低く湿気が多いのを嫌ったから、武后様が、北東にある地に、大明宮を完成させたのだ。
以後、皇帝は、大明宮に住んでいる。
完成させたと云うのは、太宗様が皇帝になった時、隠居した高祖様の為に大明宮の場所に、宮殿を建て始めていたが、高祖様が亡くなったので、建設を止めた物だったからだ。
太宗様は皇帝であったけれども遠慮して、宮殿が出来るまでのつもりで、高祖様には太極宮に住んでもらっていた。
太宗様は、東宮に住んだようだ。
だから、高宗様は、東宮で誕生している。
高宗様が、住まなくなった太極宮は、その後、公式の儀式の時にだけに使われるようになった。
だから、空いているといえば、空いている。
だが、高宗様が嫌った場所である。
御老人に快適な場所かどうかは、疑問である。
この場所を選んだことに、好意は感じられない。
この略式名は、大明宮から西南にあるから、“西内”と呼ばれ、太極宮の東北にあるから、大明宮は、“東内”と呼ばれていた。
玄宗が、興慶宮を作った。
興慶宮は皇宮の南にあるので、“南内”と呼ばれていたのだ。
粛宗は、泣いて応じなかった。
李輔国は、怖れた。
粛宗の恩寵をより確かな物にしようとしていたのに、泣かしてしまった。
マズイと思った。
しばらくして、粛宗は病気になった。
秋、七月十九日、
李輔国は、粛宗にウソの話を語った。
玄宗様を、時には気分を変えて過ごすため、西内に迎えましょう。
と。
叡武門につくと、李輔国は、矢を射る騎兵五百騎と刀を抜いて刃を見せる兵士に道を塞がせて、云った。
皇帝陛下は、興慶宮は湿気が多く狭いので、上皇様に皇宮に移り住んでいただきたい。
と、お迎えしたのです。
玄宗は、驚いた。
すんでの事で、馬から落ちそうになった。
高力士は、
李輔国、何と無礼を働くのだ!
と叱り、馬から下りるよう、命じた。
李輔国は、やむ得ず、馬から下りた。
そこで高力士は、上皇の命令だとして云った。
諸将士の方々、好きにしなさい!
と云った。
将士たちは、皆、刀を納めて、再び拝礼をして、“万歳”と叫んだ。
元の主、前の皇帝・玄宗に、礼を尽くしたのだ。
高力士は、又、李輔国に、共に上皇様の馬の手綱を執るようにと、命じた。
貴人である李輔国は、この時、馬の側に走り寄ったと云う。
習慣、いや習性と云うべきか?
かつての上司・高力士に、つい反応したのだ。
これから住むであろう甘露殿に、侍衛がいた。
李輔国は、将士たちを率いて去って行った。
侍衛の兵士たちは、留まっていた。
上皇様の侍衛なのに、わずか数十人の足の悪い老いた兵士たちであった。
使い者にならない兵士を配したようであった。
陳玄礼、高力士や玄宗に仕える宮人たちは、皆、左右に留まる事は出来なかった。
玄宗は、云った。
興慶宮は、我の王地である。
我は、何度も、“皇帝”位を譲ろうとした。
だが、息子・粛宗は受けとらなかった。
今日のあの者たちの働きは、また、我の意志でもある。
強いられたこの状況を、さも、自らの意志であるかのように、語った。
玄宗の意地であった。
宦官ごときの嫌がらせに、気落した様子を見せたくなかったのである。
高力士は、次に来るであろう、自分への嫌がらせの予感からか、玄宗に別れを告げた。
多分、何等かの罪を着せられるだろうと。
今頃、手綱を執るため馬に駆け寄った李輔国は、自分を罵っていることであろう。
我は偉いのだ。
だのに、あんな事をしてしまった、と。
この日、李輔国は六軍の大将たちと、素服(白い絹の衣、凶事の時に着る)を着て、粛宗を見上げ謝罪した。
粛宗は、又、その働きについて、諸将に強く云った。
南宮、西内、また、何の違いがあるのだ。
そなたたちは、小人数が惑わしたことを怖れている。
小さい糸口を塞いだのだ。
だから、国家は、安らいだのだ。
何を怖れる事があるのだ!
これは、まさか皇帝の意向に背いて、上皇様を勝手に転居させた事を、面と向かって謗れないからの発言だ。
だから、口調は激しく、顔付きも険しかったであろう。
心は、態度に現れる。
本当はこの事態に、怒っているのだ。
だが粛宗は、皇帝が私的軍隊である禁軍を掌握出来ていないと、周りに知られたくなかったのである。
刑部尚書の顔真卿が、同僚百人を率いて、
上皇様が、起居する場所の是非を問う。
との上奏を出した。
李輔国は、嫌な気がした。
上奏して、顔真卿を蓬州長史に貶めた。