三種の通貨、流通
三月十三日、
趙王・係が越王となった。
三月十八日、天下に大赦を行った。
改元して、“上元”とした。
太公望を追諡して、武成王とした。
歴代の名将を、亜聖として、“十哲” を、選んだ。
秦、武安公・白起
漢、淮陰公・韓信
蜀、丞相、諸葛亮
唐、尚書右僕射、衛国公・李せい
唐、司空、英国公・李勣
漢、太子少傅・張良
斉、大司馬・田穣苴
呉将軍・孫武
魏、西河守・呉起
燕、昌国君・楽毅
そして、祀った。
この日、史思明は、洛陽城に入った。
昨年、九月に、洛陽を手に入れていたが、半年以上、城に入らずに白馬寺に駐屯していたのだ。
軍と共に、その城、一つの城にのみ移動した。
李光弼がなにか細工をしていないか、不安だったのである。
五月十七日、
太子太傅・苗晋卿は、侍中になろうとしていた。
苗晋卿は、役人として熟練していた。
立場に相応しく、身を慎み行動した。
時の人は、胡黄と比べた。
宦官の馬上言は、賄賂を受けとった。
兵部侍郎、同中書門下三品・呂しんに、呂しんの為に補助する者を捜すようにと頼まれたのである。
事が発覚して、馬上言は杖死となった。
五月二十三日、
呂しんは、太子賓客となるのを、辞めさせられた。
五月二十四日、
京兆尹の南華の劉晏が、戸部侍郎、充度支、鋳銭、塩鉄使などに任命された。
劉晏は、理財に明るく、良く治めるので、用いられたのである。
六月六日、
桂州、経略使の刑済が、
西原の蕃族二十万の兵を討ち負かし、その帥・黄乾曜を斬りました。
との上奏をした。
六月七日、
鳳翔節度使の崔光遠が、
けい州、隴州、渾州の十余万の兵士を破りました。
と、上奏した。
開元通宝銭、乾元重宝大銭、乾元重宝重輪銭、三種類の通貨が流通していた。
穀物価格は高騰し、米一斗が、七千銭となった。
食べる物が無くて、人が人を食らった。
米は、当時、どのような値段であったのであろうか?
同じ玄宗の、
開元十三年(725年)、この年は豊作で、
洛陽では、米一斗が十銭
西寧州、北西地方では、米一斗が五銭、粟三銭、
開元二十八年(740年)、
長安、洛陽では、
米一斛、一斗の十倍が二百銭未満、
一斗、二十銭にもならなかった。
一枚の銭が一文だから、どちらで表示しても同じである。
しつこいようだが、単位を揃えて、整理して見ると、
開元十三年、豊作で、
(洛陽)米一斗、十文、
開元二十八年
(長安、洛陽)米一斗、二十文以下、
十九年後、
乾元二年(759年)
米一斗、七千文、
二十文しなかった物が、七千文、
約、三百五十倍である。
京兆尹の鄭叔清が、贋金造りの者を捕らえた。
罰として、杖死させた。
数ヶ月の内に、八百人以上が死んだ。
見せしめのために死者を並べた。
だが、贋金造りを、止めさせられなかった。
京畿に、詔が出された。
開元銭は一枚一文であったが、乾元小銭と同じ十文とした。
五十文の乾元重輪銭は切り下げ、三十文とした。
これは、京畿のみで、(様子を見てからと)地方では、まだ通貨の価格変更はしなかった。
この時、史思明は一つの銭を鋳造した。
“得一元宝”としたが、後で“順天元宝”と、改名した。
元号を入れたのだ。
この銭は、一つ当たり開元通宝の百枚とした。
賊軍の中では、物価がかけ離れて高かった。
六月二十六日、
興王・しょうが亡くなった。
しょうは、張皇后の長子であった。
嫡子であるから、皇位継承の権利を持っていた。
定王・とうは、まだ幼かった。
張皇后は、だから、皇太子・豫を何度も危ない目に合わせようとした。
だが、皇太子・豫は、常に慎み深く、人の気持ちに逆らわないようにしていた。
下の皇子・とうはまだ幼く、しょうの死で、皇太子の地位は、遂に定まった。