第五きの罪
乾元二年、十二月二日、
呂しんが、度支使になった。
十二月十三日、
韋倫は、反乱を起こした康楚元を、宮城に送り届けた。
康楚元は、斬られた。
史思明は、李帰仁を大将とした鉄騎五千騎を陝州に侵入させた。
神策軍兵馬使・衛伯玉が数百騎で撃破した。
きょう子阪で、馬六百頭を得た。
李帰仁は逃げた。
だから、衛伯玉は、鎮西節度使と四鎮節度使の行営節度使となった。
李忠臣は李帰仁と、永寧と莎柵の間で戦い、度々、破った。
上元元年(760年)、
正月、一月一九日、
李光弼を、大尉と中書令とした。
他の官職は、以前の通りである。
一月二十四日、于てん王・勝の弟・曜を同じ四鎮節度副使とし、本国事の権知とした。
党項ら羌が、郊外に侵略した。
まさに、京畿に迫った。
ひん州、寧州らの州の節度使を分け、ふ坊丹延節度使、また、渭北節度使とした。
ひん州刺史・桑如珪をひん寧を治めさせ、ふ州刺史・杜冕をふ坊節度副使とし、道を分けて討たせた。
一月二十六日、
郭子儀をひん寧節度使、ふ坊節度使の、両道節度使とした。
長安に留め、その威厳ある名でもって、鎮圧した。
粛宗は、九宮貴神をお祀りした。
二月、
李光弼が、懐州の安太清を攻めた。
史思明が、懐州に、すぐに応援に駆け付けた。
二月十一日、
李光弼は、逆に、近くの沁水で戦い、首を斬ること三千余りであった。
忠州長史・第五きは、すでに赴任地に行っていた。
第五きは、金二百両を人に受け入れさせ、告げた。
御史・劉期光に、過去に遡って調べて欲しいと遣わしたのだ。
第五きが云った。
我は、宰相の位に就いた時から、備えていた。
その時、二百両の金は、身に付けていなかった。
もし、頼れる者がいたならば、罪に従い罰を受けるよう、掟に従いたいと請うた。
劉期光は、直ぐに、第五きは服さなくてよい罪であると、上奏した。
(後の人は、実情を一つ一つ取り調べることなく、でたらめな上奏をしたと、云う。)
二月十八日、
第五きは、巻きぞえで罪に陥ったと、除名された。
そして、夷州に流された。
三月一日、
蒲州を、河中府と名を改めた。
三月二十三日、
李光弼は、懐州の城下で、安太清を破った。
夏、四月二日、
李光弼は、河陽の西の岸で、史思明を破った。
斬った首は、千五百以上である。
襄州の将・張維瑾と史かいは、據州で謀反を起こした。
隴州刺史・韋倫を山南東道節度使とすると、詔が下った。
その時、李輔国は政事を行っており、節度使たちは、皆、李輔国の下にいた。
韋倫は、すでに朝廷によって、新しい官職に就いていた。
だが、李輔国には、新しい官職の御礼の挨拶をしなかった。
そして改めて、秦州防禦使を引き継いだ。
四月二十九日、
陝西節度使・来てんを、山南東道節度使とした。
来てんが襄州に着くと、来てんの強さを怖れた張維瑾たちは、皆投降した。
閏月、四月七日、
河東節度使・王思礼に司空が加えられた。
武徳以来、宰相にならずに、初めて、三公の一つ、司空になったのである。
武徳元年とは、李淵が即位した年である。
開国以来、王思礼が初めてと云うことである。