乾元重宝重輪銭
八月五日、
李光弼は幽州長史、河北節度使などになった。
九月?日。
襄州で、康楚元と乱を起こした張嘉延が、けい州を襲い破った。
けい州節度使・杜鴻漸は、城を棄て逃げた。
れい州、朗州、えい州、せん州、復州、忠州、帰州、けい州、き州の官吏は、それを聞くと皆、山や谷に先を争って逃げ、隠れた。
去年、乾元元年(758年)七月、
第五きの上奏により、絳州の鋳造所で乾元重宝大銭が鋳造されていた。
全国のあちらこちらにも、百近く鋳造所はあったが、絳州には三十程あったと云う。
唐の初期の頃は、銅山のある処に、鑪を作ったと云うから、絳州は銅を多く産出したのであろう。
“開元通宝銭”は、今まで通り一枚一文で使い、乾元重宝大銭”“は、一枚十文として使うようにしていた。
一年後の今年、九月五日、
第五きは、更に新しく”乾元重宝重輪銭“を鋳造して、一枚の価値を五十文としたい、とした。
許可された。
詔が下され、開元通宝銭と、乾元重宝大銭と、乾元重宝重輪銭の三種の貨幣が流通することになった。
都にいる百官、それと、軍隊の者たちに(無俸祿だったので)新しい銭で冬季の俸給を支払った。
前々から、贋金造りが多かったのだが、乾元重宝大銭の周りに縁取りするように金属を付けるだけで、十文の物が五十文の乾元重宝重輪銭になるのだから、贋金造りがいっそう横行した。
捕まらないように、場所も河の沖に停泊した船(中国の河は河幅が広い)で作業したり、光が外に洩れないように、山奥の洞窟で作業したりで、捕まえようがなかった。
贋金の材料にするため、寺の鐘や銅像は盗まれた。
盗まれた鐘や銅像は、鋳造され、銭になった。
貨幣は問題なく流通した。
だが、やはり、流通する貨幣が増え続けることに、無理があったのだろう。
しばらくすると、破綻が起きた。
九月二十四日、
太子少保の崔光遠は、けい州、襄州の招討使、山南東道処置兵馬都使となった。
陳州、潁州、亳州、申州の節度使の王仲昇を、申州、べん州、光州、ちゅう州、安州の五節度使、淮南西道行営兵馬とした。
史思明は、息子・史朝清に范陽節度使を守らせ、諸軍の太守各々に三千の兵士を従わせ、四つの道に分けて、黄河の南に向かわせた。
令狐彰を将兵五千人の大将として、黎陽から黄河を渡り、滑州を取るように命じた。
史思明は濮陽から、史朝義は白皋から、周摯は胡良から黄河を渡り、べん州で会うことにした。