王思礼の恩人
ろ沁節度使の王思礼は太原尹を兼ね、北京留守と河東節度使にも当てられていた。
李光弼の代理である。
ろ沁節度使とは、澤州、路州、沁州の三州のことである。
太原から、南東にあり黄河の北なので、兼ねる事はできても、やはり広範囲なので大変であろう。
かつて、潼関での敗戦の時、王思礼の馬に矢が当たり、倒れ死んだ。
うつちつの騎士・張光晟が、自ら、馬を降り、その馬を王思礼に譲り渡した。
名前を聞いても、答えず去って行った。
王思礼は、その者の顔状を密かに覚えた。
後になり、探しても、見つからなかった。
河東節度使に着いて、代州刺使、蘭州の大族出身の辛雲京が、ある事ない事で訴えられた。
王思礼は、怒った。
辛雲京は、どうしたらいいか分からず、怖れた。
張光晟は、その時、辛雲京の直属の部下であった。
張光晟は言った。
我は、かつて、王思礼殿を助けた事があります。
本来ならば、敢えて口にすべき事ではありません。
お恥ずかしい事ですが、この事で褒美を貰いましょう。
それで、辛殿を助けられます。
辛殿は、今、急いで我を使いに出して下さい。
この張光晟が、王思礼殿にお会いしてお願いします。
必ず、辛殿の事を解って貰えるようにします。
辛雲京は、喜んで、張光晟を遣わした。
張光晟は、王思礼に拝謁した。
何も言わないのに、王思礼には解った。
王思礼は、云った。
ああ、そなたは、我を旧友でないと云うのですか?
お互いを見ているのは、暗いからなのですか!
張光晟は、事情を話した。
王思礼は、大喜び。
張光晟の手を取って、涙を流して、
我が今日あるのは、皆、そなたのお陰です。
馬を呉れたから、あの戦場から逃れられ、今日があります。
我は、そなたをずうっと捜していました。
そのまま、手を引いて、同じ腰掛けに座った。
そして、兄弟の約束をした。
張光晟は、落ち着いて、辛雲京の濡れ衣について話した。
王思礼は、云った。
辛雲京の過ちは、些細な事ではない。
今日は諦めていた旧友が立派な人だとわかった。
その日の内に、張光晟を兵馬使に抜擢して、金、絹、田畑、家宅を贈った。
美談である。
ただ、辛雲京の罪は些細な事ではない云った。
気になる事である。
七月二十七日、
朔方節度副使、殿中監・僕固懐恩が太常卿を兼ね、大寧郡王と爵位を進めた。
僕固懐恩は、郭子儀に従い、軍の前鋒として、三軍の中で、勇猛果敢さが一番であり、これまでの戦で沢山の功績があるので、賞されたのであった。
僕固懐恩は、
郭子儀が早々に去ったから、ぎょう城で敗けた。と、言った。
だが、これまでの功績を見た時、僕固懐恩が陣営で味方を暗殺した事に、郭子儀が衝撃を受けた事が原因であろうと思える。
郭子儀の人柄を考えると、もし、戦を続けても、冷静な判断が出来ないと思ったのであろう。
それにより、兵士を無駄に死なせたくないと。
忌まわしい記憶を消すため、早々に立ち去ったのであろう。
僕固懐恩は、郭子儀にとり信頼する人物だったのである。
危険な任務に、命を顧みず志願する。
そんな僕固懐恩を、誰よりも頼りに思っていたであろう。
その分、衝撃が大きかったと云える。
僕固懐恩の功績から、郭子儀の想いが見える。
八月十二日、
襄州の将・康楚元と張嘉延が、その州に立て籠り、乱を起こした。
刺使の王政は、けい州に逃げた。
康楚元は、自ら、南楚覇王と称した。
回鶻は、寧国公主は子供がいないからと、帰国することを許した。
八月二十三日、
寧国公主は、長安に着いた。
顔に、七本の刀傷があるのを見て、粛宗は涙を流して悔やんだであろう。
漢人は驚いたであろう。
公主は恥じて、顔を隠していたかも知れない。
粛宗は、やはりこれからは公主ではなく代理を使った方が良いと、思ったであろう。
八月二十五日、
粛宗は、将軍・曹日昇を、襄州の康楚元を慰め諭すために行かせた。
けい州に逃げた刺使・王政を饒州長使に貶めた。
司農少卿・張光奇を襄州刺使とした。
康楚元は、曹日昇の説得に応じなかった。