魚朝恩の嫌がらせ
五月十七日、
滑、濮の節度使・許叔冀を卞州刺使とし、滑州、濮州、卞州、曹州、宋州などの七州節度使とした。
試しに、汝州刺使・劉展を滑州刺使とし、七州節度使の副節度使とした。
六月十三日、朔方節度使を分けて、ひん州、寧州など、九州節度使とした。
観軍容使・魚朝恩は、郭子儀を嫌っていた。
郭子儀は、長安、洛陽を取り戻した事によって、天下第一の武将と云われていた。
妬んでいたのである。
だから、ぎょう城を取り囲んだ戦に負けたことを、粛宗に、欠点を挙げつらって悪く云っていた。
秋、七月、
粛宗は、長安に郭子儀を召した。
そして、李光弼を郭子儀に代え、朔方節度使と兵馬元帥にした。
十日程して、宦官が、郭子儀に帰るように云った。
兵士たちは、泣いて宦官に、郭子儀をもっと留まるように頼んで、帰るのを止めさせようとした。
郭子儀は、偽って云った。
我は、中使(宦官の事)に旅立ちの挨拶をしただけ。
まだ、行かない。
そして、やおら、馬をはね上げさせ、去って行った。
李光弼は、元帥は、親王になっていただきたいとし、自分は、副元帥にして頂きたいと願った。
かつて、元帥を置かないからと、観軍容使の魚朝恩が皆の上に立った。
観軍容使は、九節度使がぎょう城を囲んだ時、初めて作られた官職である。
上役で気分がいいのか、随分と口をだした。
李光弼は、元帥を置いてくれた方が観軍容使より、下の者としては、やり易いと思ったのであろう。
七月十七日、
第二皇子の趙王・係が、天下兵馬元帥になった。
李光弼は、副元帥になった。
李光弼は、各々の節度使の軍営に行って見て、知った。
自分に比べ、他の節度使はやり方が弛いと。
李光弼は、今まで、自分が管理していた河東節度使の五百騎を、夜、東都(洛陽)まで駆けさせ城に入らせ、そこの軍に入れた。
李光弼の軍を治めるやり方は、厳整としていて、最初から最後まで、号令一つで規則正しく、兵士が城壁や砦によじ登り旗を振ったりした。
だが、皆、変わった。
表情から輝きが消えたのだ。
この時、朔方節度使の将軍、兵士たちは、郭子儀の寛ぎを思い懐かしみ、李光弼の厳しさを怖れた。
左廂兵馬使・張用済が河陽に駐屯していた。
李光弼は、召し文で呼んだ。
遣ってきた張用済は云った。
朔方節度使は、反乱軍ではありません。
夜、やって来て城に乗り込むなんて、何を疑っているのですか?
それを見た、他の諸処の将軍たちも、洛陽に自分たちの精鋭を突入する真似をしようと、謀をしています。
李光弼には、真似てやり遂げたいとして、郭子儀には、真似をしたいと頼んでいます。
その騎士たちは、鎧兜を身に着け、馬に乗り、銜枚をして、待機するように命じられています。
銜枚・兵士や馬に、口に箸のような物を咥えさせ、声を立てさせないようにする。夜の進軍に用いる。
都知兵馬使・僕固懐恩が云った。
ぎょう城での敗けは、郭公が先に帰ったからです。
朝廷は、統率者を責めます。
だから、兵権を失ったのです。
今、李公は、朝廷の命令を拒むのではなく、強く願っています。
これには、賛成できません。
朝廷の命令通り、すべての戦に勝てるでしょうか!
右武鋒使・康元宝が、李光弼に云った。
大夫は、郭公に兵士を請うた。
朝廷は、郭公が私兵を持っていると大夫に仄めかしたと、必ず疑うだろう。
これでは、郭公の一族が滅ぼされるだけだ。
郭公の一族百人が、何で君に負けるのだ!
張用済が、康元宝の話を、ここで止めた。
李光弼は、数千騎で東に出て、し水に行った。
張用済が、一人で馬に乗って、挨拶に来た。
李光弼は、張用済が呼んだ時間に来なかったと責めた。
そして、斬った。
張用済が、河陽で黄河を挟んだ二つの城の建て増しをした時から、李光弼は、敵に利する事をした張用済が気に入らなかった。
それと、戦において、時間は大切だ。
常に、守るべきである。
でないと、他の軍との連携が成り立たない。
かつて、哥舒翰が、遅れてきた王思礼を斬ろうとした事があった。
李光弼も、同じ感覚を持っているのであろう。
そして、武将・辛京杲に、張用済の部下たちを引き継ぐように命じた。
僕固懐恩は、李光弼に続いて幕営に着いた。
李光弼は、近くに呼んで座らせた。
共に語った。
暫くして、宦官が云った。
蕃族、渾族(漢族、蕃族の者がまじった族であろう)が、五百騎来ました。
李光弼の顔色が変わった。
僕固懐恩が、外の様子を見ようと走り出た。
側近の者を呼んだ。
そんな事実はなかった。
蕃族である李光弼が副元帥になったのが、気に入らなかった魚朝恩の命を受けての、その宦官の行為であろう。
李光弼の提言で、自分の職位・官軍容使が置かれ無かった事による、嫌がらせである。
(普通、宦官は、宮廷では後宮にいて、皇帝、妃などの世話をするのが本来の仕事である。宮中の感覚で、蕃族を低く見ているのだろう。その蕃人に上に立たれるのが、我慢ならないのだろう。)
宦官は、内侍省の管轄である。
宦官の行いを、多分、魚朝恩の部下であろう者を、自分の部下のように罰する訳にはいかない。
僕固懐恩は相手を特定せず、いい加減な事を云う者を、責める振りをして云った。
そなた、敵は来ないと云え。
事実とまるで違っていて、何の得があるのだ!
云わずには、いられ無かったのである。
鬱憤を晴らしたのだ。
偽の報告の話は、広まっていた。
幕営の周りには、不安そうな部下たちの顔があった。
内部の者がそんなことを云うなんて。
思いがけない敵への不安であった。
李光弼は、云った。
我に対する不満は、分かる。
だが、我に付き従う将軍や兵士は、何の罪なのだ!
皆の動揺を振り払うために、牛肉と酒で宴会をするように命じた。
呑んだら、喰ったら、笑おうぜ!
お調子者の声がした。
ドッと笑いが起きた。
周りの顔が、喜びに満ちた。
古代中国での肉の格付けでは、羊が一番普通のごちそうであった。
庶民は、魚を食べるように言われた。
格付けの一番は牛、牛の次は羊、羊の次は犬、その次は豚となる。
この時、李光弼が、“牛肉”と言ったので、喜びは、一入だったのである。