可敦の義務
乾元二年(759年)、四月八日、
陳州、鄭州、亳州に節度使を置いた。
そして、とう州刺使の魯けいを、その節度使とした。
徐州刺使の尚衛を、青州、密州、登州、萊州、し州、沂州、海州の七州の節度使とした。
興平軍節度使の李奐に予州、許州、汝州の三節度使を兼ねさせた。
なお、各々の国境は、侵入者を防ぎ捉えるために守られた。
九節度使が、相州のぎょう城で安慶緒を囲み、敗けた時、魯けいの処の兵士たちが、帰りの道すがら、民から物を奪い取ったのが、目立った。
魯けいは、流れ矢に当たって負傷していたし、魯けいの処の兵士たちは、何万人もいたがほとんど歩兵であった。
騎兵は、三百人程であった。
馬が三百頭いても、怪我人を乗せたりしたら、皆、歩兵となり、本拠地に帰るのにも時間がかかる。
歩兵ばかりだと考えると、食べ物などは無理しただろうと思える。
魯けいは、郭子儀が退いて穀水で駐屯すると、聞いた。
それと、李光弼が太原、河東節度使に帰ってくるとも。
魯けいは、部下たちの不行跡を思うと、恥ずかしく思った。
そして、その事について咎められると思った。
魯けいは、恐ろしさのあまり、薬を飲んで死んだ。
李光弼は、自殺を決断させる程、怖い存在のようである。
魯けいも、斬られるかもしれないと思うと、薬の方が楽だと、考えたのだろうか。
史思明は、自ら、“大燕皇帝”と名乗り、“順天”と、改元した。
妻の辛氏を皇后に立てた。
長子・史朝義を懐王とした。
そして、郭子儀を河陽まで追った周摯を宰相とした。
李帰仁を将軍とした。
都・范陽を改めて、燕京とした。
諸州を諸郡とした。
四月十二日、
鴻臚卿・李抱玉を、鄭州、陳州、亳州の節度使にした。
李抱玉は、安興貴の子孫である。
李光弼の副将となり、度々、戦で功績をあげた。
ただ、安祿山と同じ姓が恥ずかしいと云って、李氏の姓を賜ったのである。
回鶻のひ伽闕可汗が亡くなった。
婚姻して、一年も経っていない。
長子の葉護は、既に死んでいた。
回鶻の人は、まだ小さいけれども、下の子を登里可汗とした。
僕固懐恩の娘の婚姻相手である。
娘は、回鶻の可敦(唐の皇后)となった。
ひ伽闕可汗の可敦、寧国公主は、回鶻の人たちに、可汗に殉じて欲しいと言われた。
一緒に死んで欲しいと云うことだ。
公主は云った。
回鶻は、中国の風習を慕っていると聞く。
だから、中国の女性を妻として娶ると。
もし、回鶻の元々の風習に従いたいのであれば、何で、万里も遠くの地の者と婚姻するのか!
漠北の風習では、死者の遺体を帳の中に置いて、子孫や親族の男女が各々、牛や馬を殺して、帳の前で死者に見せるようにして祀るのであった。
帳の周りを、馬を七周走らせるのである。
妻は、帳の門の処に行って、哭きながら、顔を刀で切るのである。
血と涙が共に流れる。
以上の事を七度行い、止める。
過酷な妻の義務である。