李輔国
太子せん事である李輔国は、粛宗が霊武にいた頃から、判元帥行軍司馬となり、帳のすぐ側で侍り、詔を述べ伝えるように、四方の役所に奏した書状を送った。
書状の天子の印を割り符としたり、朝夕の軍隊の号令など、粛宗は、一からもってすべて、李輔国に委せていた。
李輔国、
宮中の閑廏馬の家の出身であった。
李輔国は、背が低く、それが悩みであった。
幼い頃に男でなくなったが、簡単な読み書きそろばんが、出来た。
時を経るごとに、その能力は進化した。
高力士に仕えた。
四十才頃、王きょうが、李輔国が馬の世話が巧みなので、東宮に推薦した。
当時は、輔国と云う名ではなかった。
静忠と云う名であった。
粛宗に付いて、霊武に行った。
その時、いつも側にいて世話をしたので、粛宗に気に入られた。
随行の人が少ないので、自然と接触が多くなったのである。
粛宗が即位すると、太子家令に抜擢され、家の全てを任された。
その時、護国と云う名を賜った。
国を護るなんて、大げさな。
強い武将のような名である。
粛宗の好意が見て取れる。
鳳翔で護国から、輔国に改名したのだ。
だから、長安に着いた時は、李輔国であった。
長安に帰ってからは、専ら宮中の兵士を管理した。
霊武で、朝夕、兵士の点呼をしていたので兵士たちと親しくなり、懐柔し、掌握していたのであった。
北牙は、龍武大将軍・陳玄礼が率いて、玄宗の側にいた。
羽林軍、龍武軍は名称が違っても同じ物、北牙で存在理由も同じである。
宮中に宿舎として、部屋を賜った。
高力士も、賜っていた。
玄宗の、“高力士が側にいれば、安心して眠れる。”と、云う言葉に、高力士は、宮中に泊まり、あまり家に帰らないようにしていた。
だから、部屋は、必需品であったのである。
李輔国は、高力士と同じような、恩寵を受けていたのだ。
だから、妻を世話されたのだ。
この妻の遠戚・元載は、母親の姓を名乗っているが、驚いた事に、元載の妻は、あの王忠嗣の娘であったのだ。
一時は、四つの節度使であり、玄宗にも、部下にも慕われた王忠嗣である。
だが、安祿山の謀叛を玄宗に進言した事で、玄宗に嫌われたのだ。
粛宗と共に育ったと云う因縁もある。
哥舒翰、李光弼、王思礼などを率いた。
哥舒翰は亡くなったが、他の二人は官軍の中核をなす、立派な将たちである。
元載の妻の名を出すと、武将たちにも、受けがいいと思えた。
南牙は、手に入れた。
北牙は、霊武で親しい関係になった。
だが、あまりに数が少なすぎた。
その時にいた兵たちは、ほとんど節度使や、応援に駆けつけた蕃族の兵たちであったのだ。
羽林軍も、きっかけさえあれば懐柔しようと、思っていた。
だから、長安の街の警備を羽林軍に手伝ってもらう話を粛宗に頼んだのだ。
兵士は、少しでも多い方がいい。
いざと云う時、動かせる兵が多いのは心強い。
元載は、いずれ、我に利益をもたらす、と思えた。
元載に目を掛けようと考えた。
李輔国は、宦官を使って、粛宗の行動、考えを知ろうとしていた。
役職が多くなったので、粛宗の側に居られなくなったのだ。
粛宗の考えを知るために、李林甫のやり方を踏襲する事にした。
だから、元載にも、宦官からの情報を伝えるように手配した。
これで、持ちつ持たれつだ。
陛下、いい妻を世話して下さった。
李輔国は、ほくそ笑んだ。
元載、家格違いの良家の娘をどうやって、手に入れたのだろう?
知りたいものだ。
粛宗の詔は、必ず、李輔国を経て李輔国が署名して、しかる後、施行された。
宰相や多くの役所が決められた時間でないのに、国政の重要事項について上奏したい時は、皆、李輔国に頼み、その旨を承諾してもらった。
常に、李輔国のいる銀台門で、天下の事が決められた。
事の有る無し、事の大小、李輔国が詔を口にしたものを、書き付けて、外で施行させた。
李輔国が奏したものを聞いて、その事は終わった。
また、事を明らかにするために、数十人を置いた。
色々、探らせたのだ。
些細なことを明らかにするため、その人の周りに聴取する人を、潜ませるように命じた。
即ち、押したり引いたり、駆け引きをした。
追求するところがあると思えても、各々の役所で、“もっと調べては、”と意見を云う者はいなかった。
変だと思っても、皆、黙っていたのだ。
御史台、大理寺の重罪の者は、なかなか審理が終わらないので憶測で決めていた。
李輔国は、銀台門に居たが、一時は勝手気ままであった。
三司(刑部、御史台、大理寺)府、県の獄では罪人を問い詰めて裁きをつけるのに、皆、まず李輔国の処に伺い、相談して命令を受けた。
事の軽重は、思いのままであった。
李輔国の決めた事が、詔として実行された。
あえて、違うと云う者は、居なかった。
李輔国は、常に僧侶の格好をしていて、肉、魚、にら、ニンニクなどの生臭い物を食べなかった。
そして、政務の間の空いた時間には、念仏を唱え、手にした数珠で念仏の数を数えていた。
だから、皆、李輔国は、善い人だと信じていた。
粛宗も、そんな李輔国に惑わされていたのであろう。
だから、護国なぞと云う名を賜ったのであろう。
宦官で、その官を斥ける者は居なかった。
皆、五郞殿と呼んで、敬った。
山東地方の甲族(格式の高い有力な家柄)の李揆が李輔国に、子弟の礼を取り、五父上と呼んだ。
李揆も、その姿に騙されたのであろう。
李げんが、宰相になるに及び、粛宗の前に出て、頭を床に叩き付けて罪を詫びた。
皇帝の詔を皆で議論して、それに応じた文書にして出します。
その時の李輔国の勝手気ままに政事を乱す様子を具体的に述べた。
粛宗は、目が覚める思いで悟った。
そして、その正直さを褒めた。
李輔国は、事に当たり、多くの処を変更し、詳しく調べる事はしません。
李輔国は、この事によって、“判元帥行軍司馬”を辞めて、本官である“太子せん事”に戻りたいと、請うた。
粛宗は許さなかった。
判元帥行軍司馬は、天下兵馬元帥の上役となる。
そんなに簡単に変えていい役職ではないのだ。
これが契機となって、国の軍の務めが正しくなり、また、口での詔で、処分できるようになった。
囚人たちは、色々なやり方で詳しく調べ、杖などでも取り調べをするように。
今から、すべて一斉に止める。
まさに、宣言したようにでなければ、行われない。
宮中、宮殿の外の、各々の役人は、各々の役所に帰って行った。
英武軍の長・虞候と、六軍の諸使、諸司たちはここに来て、議論を 戦わせた。
今から、一切、御史台、京兆府を経ないで、待つと。
不平を裁くからであり、その具体的な状態をよく聴いて、朕に上奏して聞かせるように。
もろもろの法律は、殺人、姦通、盗難、贋金造りを除く十悪、あまり、無駄で煩わしい事は、一切除くように。
なお、中書省と門下省の法官は、詳しく調べて決めて、朕に上奏するように。
李輔国は、この時、宮中で兵権を持っていた。
詔の内容は、書状が不備なのに、書状が出される事で、李げんが述べた通りであった。
粛宗は、甚だ歓び、李げんが云った通り、詔をその日の内に下した。
だから、李輔国の権威はガタ落ちとなった。
李輔国は、李げんを恨んだ。