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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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唐の軍隊

三月十八日、

回鶻の骨啜特勒、帝徳たち十五人が、相州から長安に逃げ帰って来た。

相州は奪われ、史思明の息子・史朝義が今は治めている。

粛宗は、紫宸殿で宴を開いた。

今までの働きに、賞を賜った。

各々、差があった。


三月二十四日、

骨啜、特勒たちは、長安から陣営に帰っていった。


三月二十五日、

茘非元礼をもって、懐州刺史とした。

懐州は、安太清に奪われ、そのまま安太清が治めている。

だから、懐州刺史の仕事は出来ない。

権知(ある期間だけ、その官職を行う)として、鎮西、北庭の行営節度使を兼務とした。

茘非元礼は、また、段秀実を節度判官とした。

気が合うのであろう。


三月二十八日、

兵部侍郞・呂?を同平章事とした。

宰相である。

三月二十九日、

中書侍郞、同平章事の苗晋卿を太子太博、王与を刑部尚書とし、政事から手を引かせた。

そして、京兆尹の李げんを史部尚書とし、中書舎人兼礼部侍郞・李揆を中書侍郞とした。

それと、戸部侍郞の第五きを同じように、同平章事とした。

宰相である。

第五き、賀蘭進明の部下として、登場している。

元々は、韋堅の下で働いていた。

だが、韋堅が、李林甫に陥れられた時、そのとばっちりを受け、須江郡の丞に任じられた。

賀蘭進明は、そこの太守であったのだ。

賀蘭進明は、第五きを重んじた。

第五きは、富国強兵の策を学んでいたのだ。

賀蘭進明が、顏真卿の元に行った時、玄宗に河間、信都等五郡と戦うように云われた。

だが、なかなか動かなかった。

玄宗が当てにした、賀蘭進明の立派な功績は、顏真卿の手柄を奪ったものであったので、自信がなく戦えなかったのである。

玄宗は怒り、戦わないなら殺すと、刀を持った宦官を寄越した。

その時、第五きが、お金で強い兵士を雇うよう進言し、賀蘭進明は勝つことが出来たのである。

そこ平原では、戦費を得るため、顏真卿が塩に税をかけていた。

第五きは、それを見た。

至徳元年(756年)、八月、

第五きは、玄宗に謁見して、戦費を得る方法が有るからと、職を求め、監察御史、江淮租庸使を委された。

江淮租庸転運使は、かつての上司、韋堅の官職である。

転運使の役は付いてはいないが、出世である。

第五きは、江淮の物資を皇帝の元に送る事を考え、大運河ではなく、揚子江から、漢水を遡り、陝西南部から陸送する方法を考えた。

大運河は、賊軍がいて使えないのだ。

“広運澤”を造った韋堅の下にいたので、漕運については詳しかったのである。

ただ、揚子江を船で遡るのは、重くて大変なので、租米を他の軽い物に変えて送った。

この方法は、食糧問題を解決することにはならないが、当面の戦費には役立った。

このように業績を上げていったので、後の塩の専売の仕事も出来るようになったのであろう。

それに依って朝廷は、より簡単に戦費を得ることが出来るようになったのである。

粛宗は、李げんに厚く恩を感じていた。

李げんも、また経済の事を己の責任としていた。

軍国の大事の多くは、李げんが一人で決定した。


この頃、長安で盗みが多かった。

李輔国は、羽林軍の騎士五百人を警備のための見回りにしたいので、選ばせてほしいと粛宗に頼んだ。

李揆が、粛宗に書状を奏した。

昔、西漢でも南北軍がお互いに、制し合いました。

ゆえに、周勃が、南軍から、北軍に入るようにしました。

そしたら、劉氏(皇帝)が安らぎました。

皇宮は、羽林軍の南にあります。

北は、禁苑があり、そこに羽林軍の本営があります。

だから、北衛軍を禁(苑)軍と呼ぶのです。

北牙、羽林軍は、本来、皇帝の私的軍隊と云えます。

文武は、きちんと分けられています。

で、もって、お互い伺い見ています。

北牙も南牙も同じです。

分けられているのです。

ただ最近は、羽林軍が正規軍とされています。

安祿山の謀反で、兵が足らなくなり、北牙、南牙と云ってられないからです。

南牙、南衛禁軍は皇城にあり、宮城の南にあります。

唐の元々の正規軍と云えます。

皇城には、尚書省などの役所があり、南牙はその中にあります。

この軍に、かつて折衝府の兵士が所属していました。

今は、兵役を課していないので、南衛禁軍の仕事は、門の警備や親衛、儀仗などです。

だから、“夜行の禁”を取り締まるのも、南衛禁軍の仕事になります。

皇宮の南、長安城の居住地区を巡回して警備するのです。

夜は坊から出てはいけないのに、街で人を見つけると規則違反なので罰します。

夜行の禁を犯しているからです。

笞刑二十回です。

皇族、身分の高い人は、“夜行の禁”の対象外です。

(だから、李俶の母親が亡くなった時も、人知れず埋葬できたのだ。)

坊から出てはいけない、と云っても、坊はとても広い。

一番、小さい坊で、東西、南北、約五百(500)メートル、一番大きな坊は東西、約九百五十(950)メートル、南北約八百(800)メートル程です。

中には、いろんな店もあり、別に困る事もありません。

長安城は、まん中、南北に走る朱雀大街を左右対称に、東・万年県に五十四の坊と東市、西・長安県に五十四の坊と西市を持っています。

ただ、東・万年県の東南の端には、曲江池があり、坊が作れず、建前と違い、坊は五十三です。

ちなみに、朱雀大街の幅は百四十七(147)メートルです。

長安城の城郭の大きさは、東西九千六百九十一(9691)メートル、南北八千百九十二(8192)メートルです。

大きな城です。

だから、警備も大変です。

ただ、坊に入ったからには、日の出までは、その坊に居なければなりません。

坊は、夜、鍵がかけられ、朝、解錠されます。

出ようにも、出られないのです。

坊の鍵は坊正が管理しています。

朝廷での、坊の鍵の管理は、皇帝、みずからがしています。

(楊貴妃を実家に帰した折り、迎えを遣るのに、玄宗は、坊の鍵を探し、渡しています。楊貴妃の実家であろうと、坊は、閉じられるのです。)

羽林軍の本来の仕事は、皇帝の警護です。

だから、陛下と一緒に蜀まで行ったのです。

南牙、南軍と一緒に、北牙、皇帝警護の羽林軍が、皇宮の南の居住区を警備するのは、明らかにとても可笑しな話です。

南牙が、皇宮の南を守るのです。

制度はどうなるのですか!

話は、ここで、終わった。


李輔国は、羽林軍の職を奪いたいと思っていた。

と、李揆が、語った。

その通り、

李輔国は、羽林軍の何人かと、知り合いになり、それをきっかけに、羽林軍の兵士を手に入れようとしていたのだ。

職ではない。

奪いたいのは、人だ。

騎士五百人を“選ばして欲しい”と、云ったのである。

李輔国は、気に入った騎士を選ぼうとしたのである。

ただ、“誰でもいい”兵士を借りようとしたのでは無い事がわかる。

粛宗に気に入られ、評判の良い李輔国なら、皆、懇意になりたがる。

難しい事ではないのだ。

ただの皇子だった玄宗だって、玄武門の羽林軍と親しくなったから、韋后を誅殺出来たのだ。


なぜ唐には、羽林軍と国軍、二つの軍があるのか?

隋の終わり、煬帝は揚州にいて、中原(長安、洛陽)に帰らないと決めた。

軍の兵士たちは、各地で造反する者が多くいるのを見て、家族が心配になり、長安に帰りたいと思った。

そこで、煬帝の親衛隊(作って、まだ日が浅かった)と兵たちが故郷に帰るため、一緒に煬帝を殺したのである。

煬帝は、自分の部下に殺されたのだ。

兵士たちは、長安を目指したが、途中、各地で蜂起した者たちによって殺された。

だから唐は、隋の失敗を教訓として、軍隊を作る最初から、国軍の他に、皇帝を守る私的軍隊を作ったのである。

太宗は、元従禁軍を作り、その役職は子どもに引き継がれ父子軍となり、北衛禁軍の基礎を作った。

高宗の時、人員を増やし、左右羽林軍と命名し、一万五千人、左右なので、計三万人とした。

開元二十六年(738年)

玄宗は、羽林軍の兵力を増強するため左右龍武軍を作った。

左右一万五千人ずつ、計三万人、羽林軍、龍武軍、合わせて六万の兵士とした。

粛宗だって、最近、英武軍を作った。

龍武軍と呼ぼうと羽林軍と云おうと英武軍と云っても、禁苑に宿営する、皇帝の私的軍隊、同じ物である。













三月三十日、

郭子儀を、東畿、山東、河東諸道元帥とした。

権知の東京(洛陽)留守とした。

河西節度使の来てんを、陝州刺史とし、陝州、かく州、華州節度使とした。

夏、四月四日、

澤?節度使の王思礼が、史思明の将である楊旻を?城の東で破った。

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