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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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僕固懐恩

三月六日、

官軍は、歩兵、騎兵、合わせて六十万の兵士で、安陽河北に陣をしいた。

史思明は、自ら五万の精鋭を率いて敵対した。

諸軍は、これを見た。

官軍は、今回、統率者がいないので、統一した指揮が取れないので、遊軍とした。

史思明は、全力で出てきた。

李光弼、王思礼、許叔冀、魯けいが、まず、先に撃って出た。

殺し、殺されるのは、同じ位であった。

魯けいに、流れ矢が当たった。

魯けいを、後ろに退かせた。

そして、魯けいに代わり、郭子儀がその隊を率いた。

未だに、布陣は敷かれたままであった。

突然、大風が起き、砂が吹き荒れ、木がなぎ倒された。

昼なのに、天地が暗くなった。

両軍は驚き、官軍は南で潰れ、賊軍は北で潰れた。

目に砂が入るので、目をつぶり、体を丸くして風が通り過ぎるのを、待った。

そして、鎧兜、武器などの重い物を乗せた幌馬車を道に捨てて逃げた。


戦いの前に、こんな事があった。

史思明は、自ら、“燕王”を名乗っている。

と、牙前兵馬使・呉思礼は言った。

史思明は、結局、背いた。

どうして、蕃賊の将軍は、国家に忠誠を尽くす事をしないんだ!

と、言って、意味ありげな目で、左武鋒使・僕固懐恩を見た。

僕固懐恩の顔色が変わった。

史思明にかこつけて、自分の事を云っていると思ったのだ。

そして、心の中で呉思礼を恨んだ。

戦の当日、史思明は、あまり有能でない兵を相州に置いた。

郭子儀は、諸軍の防御の兵を率いた。

そして、万金駅で戦った。

賊軍は騎馬兵と歩兵を分けて、ふ州の西に並べた。

郭子儀は、僕固懐恩を使って、蕃族と漢族の混じった軍を率いさせ、向かい撃たせ、敵を破った。

大風があり、戦は沙汰止みとなった。

皆、陣営に帰った。

陣営に帰ってきた呉思礼が、矢で射られ殺された。

“呉思礼が、陣営で死んだ。”

その日の夕方、陣営は撤収された。

郭子儀は、僕固懐恩が手を下したと、疑った。

身を脱して、先に去った。

同じ軍の者を疑うなら、戦は出来ない。

前に見える者に一生懸命なのに、後ろの方にまで気を付ける事は出来ない。

他の軍も郭子儀に続いた。


僕固懐恩、誇り高き男である。

貞観二十年(646年)

鐵勒部落の九姓大首領が、部落の者を引き連れ、唐の太宗様に投降した。

僕固懐恩の祖父の時代の事である。

祖父・歌濫抜延は、右武衛大将軍であり、金微都督であった。

その息子、乙李啜抜が懐恩の父親であった。

都督は、世襲であった。

金微は、今の山西省を東北に出た蒙古地区にあったと考えられる。

僕固懐恩は、蕃族の血を引くが、唐の領する土地に生まれ、唐の意識を持って育った人である。

正月の朝賀には、幼い頃から連れていかれ、大きくなれば、参加したであろう。

幼い子を連れて行ったのは、動物の演技を見せるためである。

幼い懐恩は大喜び。

そのまま、元宵節まで留まったであろう。

玄宗の誕生日も同様。

長安を訪れる日を楽しみにする子であったであろう。

髪も眼も黒くなく、見た目はどうであれ、心は大好きな唐にある。

僕固懐恩は、勇ましく強く、ゆったりとしていた。

ただ、寡黙であった。

僕固懐恩が、どんな人物か良く解る話がある。

僕固懐恩の息子が、戦に敗けて逃げ帰ってきた。

怒って、息子を斬り殺したと云う。

その様子を見た部下たちは、恐れて、次の戦で素晴らしい働きをしたと云う。

寧国公主が、回鶻に嫁いだ時、“息子の登里にも嫁を、”と云う、可汗の突然の願いに、粛宗はあわただしく、僕固懐恩の娘を嫁とするよう命じた。

僕固懐恩は、命令に従った。

この事により僕固懐恩は、粛宗から、鐵券を賜った。

僕固懐恩の娘が、可汗の息子と婚姻したことにより、唐は助けられる事になる。

強いが、文句も言わず、国に従順な男であった。

長安を奪還した時、城に逃げ込んだ賊軍を、軍の元帥である広平王・俶に

賊軍は、城を棄てて逃げます。

追わせて下さい。

と、何度も頼み、

明日の朝にしましょう。

休んでください。

と、答える広平王・俶に

今、李帰仁、安守忠を得るべきです。

と、一晩に何度も起きてきては、しつこく頼んだ、あの男である。

結果、安守忠、李帰仁、張通儒、孫孝哲たちに夜中に、逃げられる事となった。

陝城での戦に勝った時も、僕固懐恩たちは賊軍を追って行った。

戦に通じていたのである。

そんな僕固懐恩は、郭子儀が先に帰るなど、いつもと、違ったやり方をしたのを、無言の伝言と理解した。

郭公には、解ったのだ。

我の仕業だと。

だから、怒っているのだ。

あの温厚な郭公が怒るのは、我が許され無いことをしたからだ。

郭公に嫌われたら、我は苦しい。

もう、二度と郭公に嫌われ無いようにしよう。

僕固懐恩は、郭子儀を頼みにしていた。

官軍に入った当初、僕固懐恩は、上の者が怒ると、ののしったりして、下の者に恥をかかせるのを見た。

僕固懐恩は怖れた。

そんな扱いをされたことがなかったからだ。

僕固懐恩の配下の朔方節度使の蕃族、漢族の兵士たちは、多くの決まりを守らなかった。

故郷から連れて来た部下たち、草原で育った者は、大雑把おおざっぱなのである。

だが、郭子儀は、おおらかに対応してくれた。

僕固懐恩のことも重く見てくれていた。

だが、李光弼の威厳を持って規則を守るやり方を見た時、僕固懐恩は怖れた。

自分もそうだが、配下の者たちは、あんなやり方に馴れてない。

ささやかな規則を破り、罰を受けたりしたら、国を愛せなくなる。

だから、極力、郭子儀の下に入ることを望んだ。

自分は、配下の者たちを口で守れ無いと分かっていたからだ。

もう遣らない。

郭公に嫌われたく無い。

郭子儀の意図は、伝わったのだ。

僕固懐恩は、戦いに依ってしか、能力を示せ無いのだ。

能力は、戦いにだけ抜きん出て、その分、口の方がからっきしであったのだ。

李光弼と王思礼は、軍の隊列を整えて、全軍で帰っていった。

李光弼は、契丹の酋長の家系の者である。

父親・楷洛は、左羽林将軍同正で朔方節度副使であった。

薊国公に任じられていた。

だが、蕃族であった。

王忠嗣の下で大切にされ、

李光弼は、必ず我の職位に着く。

と、言われていた。

だが、王忠嗣が言ったようには、なかなかなれなかった。

十人台、百人台の長には成れても、万人を率いる長には、成れなかった。

“良い将軍を”と、粛宗が郭子儀に聞いて、推薦されたから、その地位に着けたのだ。

王忠嗣が認めたように、郭子儀も認めたのだ。

下積みが長かったから、兵士の気持ちもわかるし、きちんとしていた。

王思礼も、兵士から出世していった者だからきちんとしていて、兵士にもそれを求めた。

物は、特に大切にした。

物の値段も知っており、食べ物も無駄のない工夫をした。

調理係の負担を減らすために最後は、饅頭などで、皿のたれをきれいに拭かせた。

これで、担当者の皿洗いが楽になった。

すべてにおいて、効率を大切にした。

上の者がして見せるので、下の者もやかましくいわなくても、見習った。

軍として退く時は、おさ一人、先に逃げることなく、皆で引いた。

だから、戦場に立った時、予め、退路を確かめた。

二人は、王忠嗣のもとにいたので、良く似ていた。


郭子儀は、朔方軍を使って、洛陽(東京)を守るため、河陽の橋を断ち切らせた。

戦馬は一万頭いるはずが、ただの三千頭だった。

甲冑、兵器十万あったが、殆ど棄ててきた。

洛陽の民は、驚き怖れ、山や谷に走って散った。

洛陽留守をしていた崔円、河南の尹蘇震たち官吏は、南の襄州、とう州に走った。

諸節度使は、各々の節度使に帰っていった。

兵士たちは、通りすぎる処で、物を奪った。

上司がめてもまなかった。

十日ほどで、軍の方針が決まった。


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