節度使の決定権
平盧節度使の王玄志が、亡くなった。
王玄志は、今年の二月に、節度使になったばかりであった。
それまでは、遼東、朝鮮により近い、安東大都護にいた。
就任して、一年も経たない死であった。
粛宗は、将軍や兵士たちを慰撫するために宦官を遣わした。
それと、節度使の中で誰がその官職に着きたいか、様子を見させようとしたのである。
その者に、宦官が持っていった旗印を授けようとしたのである。
使者の持つ旗印であるが、授けるのは行き過ぎであろう。
この時点で、形式に合っているのかと、疑う。
副将である、高麗人・李懐玉が、王玄志の子を殺した。
そして、侯希逸を平盧の軍使に推した。
侯希逸の母は、李懐玉の姑であった。
李懐玉と侯希逸は、義兄弟だったのである。
だから、李懐玉は侯希逸を立たせようとしたのである。
副将なら、李懐玉の方が位が上である。
が、李懐玉は、高麗人だったので、漢人の方が、受け入れられ易いとの計算が働いたのかもしれない。
二人に取って、どちらがなっても良かったのである。
前・節度使の子を殺しているのだ。
他の人は怖くて、もう、手を挙げられない。
平盧節度使は、侯希逸を選んだとした。
だから、宦官(朝廷)は侯希逸を節度使とした。
この経緯は、節度使で事は運ばれ、決められたと云う事である。
想像するに、節度使の候補者の名前を宦官は朝廷に持ち帰り、重臣たちが協議し、節度使を決定し、節度使にそれを告げると、云うのが、順序であろう。
そして、朝廷が決めた節度使を任命する事で、終わる筈であったのだ。
粛宗は、即位の時、引き継ぎは、形式を踏むことと、李泌に云われていたのに、である。
そして、それは何事にも当てはまることなのに、節度使に任せたのである。
だから以後、この平盧節度使でのやり方が、前例とされた。
他の節度使でもと云う事だ。
その方が、各節度使の実力者にとって都合が良かったからである。
これは、節度使を選ぶ“決定権”を、節度使が持つ事を意味する。
朝廷は、節度使を選べ無くなったのだ。
ただ、決定した節度使を承認することだけが、朝廷の仕事になった。
これは、粛宗も良くないが、宰相が悪い。
事務手続きは、官吏が前例を踏まえて、行うべきである。
当然、前例はある筈だ。
粛宗が選んだ宰相・王よは、巫祝について詳しく、それが理由で選ばれた。
玄宗が、老子や神仙について詳しい陳希烈が、宰相になるのを喜んだのと良く似ている。
後になり、宰相の仕事をしていないと、陳希烈を辞めさせたがったが。
王よも、宰相の仕事に関しては、陳希烈と似ていたのだろう。
張鎬が宰相なら、こんな前例を作らせるようなことはしなかったであろう。
政治の中枢でいて、宰相になるまでに助走期間もあり、やり方を心得ていて、粛宗は何事も、丸投げ出来たであろう。
だが、誰でも張鎬と同じように出来るとは、限らない。
順調に見えた唐の復興、気が緩んだ粛宗は、ここでしくじったのである。
このことは、後顧の憂いとなる。
この年、振武節度使が置かれた。
鎮北大都護府と、麟州、勝州、大同けん、長寧県を治めた。
また、陝州、かく州、華州と、豫州、許州、汝州を治める二つの節度使も置かれた。
安南経略使も、節度使とした。
交州、陸州、峰州、愛州、長州、福祿州、芝州、武が州、演州、武安州たち十州である。
吐蕃が河源軍を手にいれた。
乾元二年(759年)
春、正月、一月一日、
史思明が、魏州城の北に祭壇を築き、自ら、“大聖燕王”と名乗った。
安祿山と同じ、“燕”の名を付けたのである。
安祿山は、“大燕皇帝”であったが大は同じでも、史思明は大の後に“聖”を付けた。
より、神聖な感じがする。
史思明が“燕”と付けたのは、安慶緒が、国を譲ってくれた時のことを考えての事であろう。
そのまま、“王”から、“皇帝”へと、移行出来たら、順調な出世に見えるだろう。
范陽あたりに、かつて、存在した国の名には、“燕”があった。
前からある名の方が、由緒がありそうだ。
中国の国名については、決まりがある。
その一族が、最初に与えられた州であろうが、郡であろうが、得たその地の名を、“王朝”の名とする事と。
だから、“随州”の楊堅は、その名を嫌がり、“隋”と変えた。
“しんにゅう”が、走るという意味を持つので、王朝が早く終わるのを懸念したのである。
その点、安祿山であろうと、史思明であろうと、蕃族だから、自由に名を選べたのである。
そして、史思明は周撃を行軍司馬とした。
李光弼が云った。
史思明が、魏州を得たから押さえとなり、兵が進めない。
だから、我が働けないのを、やり手の兵士が覆ってくれる。
朔方軍が、魏城に我が軍と同じように迫っているのであれば、共に戦おう。
史思明は、嘉山での失敗に懲りているからな。
郭公と我との連合軍は強い。
史思明、馬から落ちて、裸足で折れた槍を杖にして博陵に帰ったと云うからな。
我らが組んでるのを見れば、絶対に出て来ない。
一日中、無駄に過ごす日を長びかせるだろう。
史思明が、出て来なければ、ぎょう城は、必ず落ちる。
安慶緒は、終わりだな。
彼は、兵たちを使うのを止められないだろう。
焦って、兵たちを無駄に使うだろう。
傍で聞いていた監督役の魚朝恩は、二人で戦うのは出来ないとした。
二人に手柄を立てさせたくなかったのである。
話はここで、終わった。
一月十日、
粛宗は、九宮貴神を祀った。
九神とは、太一、摂提、権主、招揺、天符、青龍、咸池、太陰、天一、である。
宰相・王よの言葉に従ったのである。
一月十七日、
粛宗は、天子が祖先に供える米を耕す儀式を行った。
鎮西節度使の李承業が、ぎょう城を攻めていて、流れ矢を受けた。
一月二十八日、
李承業は亡くなった。
兵馬使・茘非元礼は、李承業に代わってその軍を率いた。
李承業は、段秀実を懐州長史として自分の代理としていた。
かつて、タラスの戦いで、囲まれた高仙芝を逃がそうと声を上げて木を振り回す李承業を、“みっともない”と云ったのが、段秀実であった。
一人逃げようとしていると、誤解したのである。
あれから年月が経ち、より交流を深めたであろう。
李承業の信頼の証が、“代理”と云う、任務である。
その時、各々の軍では、国境を守るため久しく駐屯していた。
その間に、財物は無くなり、食糧は尽きた。
それは、どこの節度使でも同じであろう。
節度使に蓄えが無くなったからと言っても、兵士たちを飢えさせる訳にはいかない。
鎮西節度使を委されていた段秀実は、市で兵を募集したり馬を売ったりして、節度使の駐屯地に備えるようにした。
馬を売っても、馬の数だけ騎兵が減り歩兵が増えるだけだ。
兵士の数は変わらない。
それよりなにより、駐屯を続けなければ。
そして、馬を売ったお金で買った干し草や粟を、一人で運んだ。
そうやって、日々を凌いでいった。