史思明、裏切る
乾元元年(758年)
冬、十月五日、
成王・李俶の皇太子の冊封の儀があった。
天下に、大赦が行われた。
この頃、大きな儀式が多く、それも私的なものが次々と行われ、法が洗い清められた。
牢獄に長くいる者、死罪の者も、皆、赦された。
一切、罪を免除して放免した。
だから、大赦と云う。
天下に大赦をするとは。
更に、皇太子は、“俶”の名から、“豫”と改名した。
かつて、皇太子が産まれた年に、豫州が嘉禾を献上した。
嘉禾とは、一つの稲から何本もの穂が実ったもので、縁起が良いものとされている。
だから、それに因んだ命名であるとされた。
“豫”を解字すると、予は我と云う意味で、象は天下太平を象徴する動物である。
我の世に天下を安定させたいと考えての命名であろう。
ただ、平和の願いだけを名前に込めたのだ。
臣下たちに賜り物は無かったが、先に、新しく鋳造した、“乾元重宝”の大銭、一つ十文の大銭を、文武百官、左右龍武軍、左右羽林軍、左右神武軍の六軍に賜った。
各々、差があった。
郭子儀は、自ら兵を率いて河を渡り、“杏園鎮”を通り、東の獲嘉県に着いた。
そこで、安太清を破り、首を四千斬り、捕虜五百人を得た。
安太清は、衞州に逃げ、そこを頼みとした。
郭子儀は、追いかけて城を囲んだ。
十月七日、
使いが勝ち戦を告げた。
魯けいは陽武県を制圧し、李広ちんと崔光遠は酸棗県を制圧し、李嗣業は兵たちと、衞州の郭子儀の下に行った。
安慶緖は、ぎようの城の兵士七万人を挙げて、衞州を救おうとした。
軍を三つに分けて、崔乾祐を指揮官とする上軍、田承嗣を指揮官とする下軍、安慶緖は、孫孝哲と薛嵩を補佐として、全軍の指揮官の居場所・中軍に入った。
郭子儀は、弓の得意な者三千人を砦の垣の中に隠れさせた。
そして、云った。
我は退く。
賊軍は、必ず我を追うだろう。
そなたたちは、砦に登って待っていなさい。
太鼓を叩く音を合図に射るのだ。
すでに、安慶緖との戦いは始まった。
退く振りをした。
賊軍は追いかけてきた。
砦の下に来た時、隠れていた兵たちが現れ、矢を射始めた。
矢は雨のように降り注いだ。
賊軍は、走り帰った。
郭子儀は引き返し、賊軍を追った。
安慶緖は大敗した。
弟・安慶和が捕らえられて殺された。
官軍は、遂に衞州を手に入れた。
安慶緖は逃げた。
郭子儀たちは、ぎょうまで追いかけた。
許叔冀、董秦、王思礼や、河東兵馬使の薛兼訓たちも、皆、兵を連れて続いた。
安慶緖は、残りの兵たちを集めて、“愁思岡”で、敵対した。
(“愁思岡“は、地元の人は、“愁死岡”と呼ぶ、縁起の良くない場所であった。)
安慶緖は、また敗けた。
前の戦いと合わせると、斬られた首三万、捕虜千人であった。
安慶緖はぎょう城に入り、固く守った。
郭子儀たちは、城を囲んだ。
安慶緖は行き詰まった。
城の外の者しか、自分を助けられない。
命が大事だ。
皇帝なんてもういい。
こんな状態の我を助けられるのは、史思明しかいない。
安慶緖は、薛嵩を密かに、史思明の元に送った。
そして、助けを求めた。
史思明をその気にさせるため、皇帝位を譲るとの、条件を付けた。
十月十五日、
上皇・玄宗は、華清宮に行幸した。
十一月十六日、
玄宗は、長安に帰った。
崔光遠は、魏州を手に入れた。
十一月十七日、
前の兵部侍郞・蕭華を魏州の防禦使とした。
郭子儀は、史思明に軍を分けて、一つは刑県、めい県から出し、一つは冀県、貝県から出し、あと一つは?水から急いで魏州に行くようにとの、命を下した。
郭子儀は、崔光遠を蕭華に代えるように、上奏した。
十二月五日、
崔光遠が、魏州刺史となった。
十二月六日、
浙江西道節度使を置いた。
管轄するのは、饒州、きゅう州、蘇州、潤州、昇州、宣州、湖州、杭州、常州、江州など十州である。
浙江西道節度使は江寧軍使も兼ねた。
十二月十二日、
浙江東道節度使を置いた。
越州、睦州、台州、明州、温州、ぶ州、衢州、処州など八州である。
淮南節度使を兼ねた。
十二月二十一日、
臣下たちが、粛宗に、
“乾元大聖光天文武孝感皇帝”
と号するように、上奏した。
粛宗は、これを許した。
史思明は、魏州の崔光遠の処に初めてきた。
崔光遠は、将軍の李処崟に史思明を手伝うように云ったが、李処崟は拒んだ。
賊軍は勢いがあるが、我が軍は連戦で疲れている。
不利だとして、急いで城に帰った。
史思明の軍に、何かを感じたのかもしれない。
史思明は、城の下まで追いかけて来て、云った。
李処崟は、我が呼んだのに、何で出て来ないのだ。
崔光遠は、史思明の言葉を信じた。
上意下達、李処崟を斬った。
崔光遠は魏州の刺史になったばかりで、李処崟をよく知らなかったのだ。
李処崟は良い上司で、配下の者に慕われていた。
だが、もう死んだ。
史思明が攻めて来た。
崔光遠は、史思明の裏切りを悟った。
兵士たちは、崔光遠に李処崟を殺されて、闘志を無くしていた。
崔光遠は城を脱出して、べん州に逃げた。
十二月二十九日、
史思明は三万人を殺して、魏州を手に入れた。
史思明は、又、唐に反旗を翻したのだ。
また謀反人となったのだ。
李光弼や張鎬の心配は、的中した。




