蔡希徳の死
九月一日、
右羽林大将軍・趙せいが、蒲州、同州、かく州の三つの節度使になった。
九月七日、
酋長を討つように、党項に使わしていた王仲昇が、党項の酋長・拓跋戎徳を殺し、首を届けてきた。
安慶緖は、ぎょうに行った当初、一つの王朝がバラバラになったといえども、なお、七郡に六十以上の城を持っていた。
そして、その城には、装備をつけた兵士や色々な道具、食糧が豊かに備わっていた。
安慶緖は、政事には親しんでいなかった。
安慶緖は、楼船(物見やぐらの付いた船)を沼に置いて固定し、飲みながら、もっぱら、船の修理をしていた。
遊牧民らしからぬ趣味である。
厳荘が、安慶緖は口ベタで、人に会わせられないとしたが、職人気質な人であったのだろう。
燕の大臣・高尚や張通儒は、権力を争っていたが、願いは叶わなかった。
王朝発足の頃のように、綱紀が無かったのである。
自分の主張の拠り所となる、規則がなかったと云う事だ。
蔡希徳は、才略があり、精鋭の部隊を持っており、性格は男らしくて、直言を好んだ、
張通儒は、そんな蔡希徳を、あることないことを言って讒言して、殺した。
もう一つ、話がある。
少し前の話、十月の事である。
蔡希徳は、密かにぎょうに居る者と内応して、安慶緖を殺そうと帰国した。
この話は、あちこちから、漏れ聞こえていた。
だから、安慶緖は、蔡希徳を殺した。
いずれにしても、蔡希徳は殺されたのである。
蔡希徳の死は、燕にとって、土台が崩れ始めた兆しであった。
直属の者数千人は、皆、逃げ去った。
諸将たちは、怨み怒り、仕事をしなかった。
だから、崔乾祐が天下兵馬使となった。
今度の天下兵馬使を見ようと、周りに兵士が集まった。
崔乾祐は、頑なで手荒い男で、人を殺すのを好んだ。
諸将も兵士も従わなかった。
ところで、蔡希徳の死に反応した男がいた。
史思明である。
史思明は、常に、蔡希徳を畏れていた。
知謀があり、果断で、英武であり、すべてにおいて、史思明はかなわないと思っていた。
史思明は、“蔡希徳の死”を初めて聞いた時、驚き、疑い、信じなかった。
その事が事実だと知って、喜びが顔に満ちたと云う。
光を見たのだろう。
賊軍の中での自分の立ち位置を想像して。
九月二十一日、
朔方節度使・郭子儀、淮南節度使・魯けい、興平節度使・許叔冀、鎮西、北庭節度使・李嗣業、鄭蔡節度使・李広ちん、河南節度使・崔光遠たち七節度使と平盧兵馬使・董秦に将軍として、歩兵、騎兵二十万で、安慶緖を討つように、粛宗は命じた。
また、河東節度使・李光弼、関内・澤る節度使の王思礼の二つの節度使の兵士も戦いに参加して、郭子儀を助けるように命じた。
粛宗は、郭子儀、李光弼は、皆、大きな手柄のあった者なので、お互い、相手の軍を指揮するのが難しいであろうと、元帥を置かなかった。
ただし、開府儀同三司の宦官・魚朝恩を観軍容宣慰処置使とした。
観軍使の名称は、ここから始まった。
元帥を置かず、監督官を置く。
普通、責任者・元帥が何事も決定する。
決定する人がいないと云うことは、軍には決定権がないと云うことだ。
そして、宦官は作戦に口を出す。
戦いに勝てる訳がない。
粛宗が、郭子儀と李光弼の二人が力を持ちすぎるのを嫌ったから、元帥を置かなかったと、云う話もある。
九月二十四日、
広州が、上奏してきた。
大食と波斯国が、州城を囲んだ。
刺使の韋利見は、城を乗り越え走って逃げた。
二つの国の兵士は、倉庫の物を盗み、仮小屋を燃やし、その残骸を海に捨てて、去った。
と、云うことだ。