寧国公主、降嫁
秋、七月十六日、
初めて、銭幣を改定して、一枚十文相当とし、新しい銭も別に造るが、旧銭一文も廃止しないと、した。
代々、価値の調整が行われていて、必ず、小銭と大銭がともに適合して、価値の大きな貨幣と小さな貨幣とが、お互いに均衡するようにしたのである。
これは、御史中丞・第五きの考えによるものである。
唐の始めは、隋の五ちゅう銭を使っていた。
しかし、武徳四年(621年)、五ちゅう銭を廃止し、“開元通宝”銭を使用するようにした。
銭文に年号を入れた、最初である。
今回の銭文は、乾元と、粛宗の年号を入れて、“乾元重宝”とした。
銭文に初めて、“重宝”と入れたが、後の王朝にも、引き継がれた。
銭に文字が置かれた場所は、
地図の北に当たる場所に、“乾”
南に当たる場所に、“元”
東に当たる場所に、“重”
西に当たる場所に、“宝(寳)”である。
何故、文字の場所に拘るのか?
実は、文字の場所に誤りが有ったとして、廃止された貨幣があるのだ。
高宗様の時代に。
乾封元年(666年)、
高宗様は、泰山で封禅をした。
その記念もあるのだろう。
新しい貨幣が発行された。
やはり、年号を入れた。
“乾封泉宝”である。
だが、乾封二年(667年)正月、
詔勅を下し、
改鋳すべきでなかった。
とし、“開元通宝”銭を旧来通り使用し、万世不変の法貨とするがよい。
新鋳の“乾封泉宝”銭は、備蓄し、さらに鋳造する必要はない、とした。
一年も使わなかったのである。
中国は、中国なりの理がある。
“天円地方”
天は丸く、地は方形と考えられている。
だから、銭は、丸く、四角い穴が空いているのだ。
“天子、南面”は、天子は、北に座り南に面する、と云うことである。
銭字は、銭のどの部分にくるのか?
北に当たる場所に、“乾”
南に当たる場所に、“泉”
東に当たる場所に、“封”
西に当たる場所に、“宝”としていた。
しばらくは、使われた。
意味があり、口や耳に馴染む音として、四字を考えた人は、出来上がった銭を見て、可笑しな処はなにも感じなかったのであろう。
四字を書いた人も、出来上がった銭を見ても、変だとは思わなかっただろう。
だが、流通すると、声が上がったと思える。
銭を立てると、東の場所に“封”がくる。
作成した人は、一つを眺め回す。
だが、使う人は、銭の穴に紐を通し、百枚の処で括り、それを十つくる。
一つの紐で十括りを作ると、銭は千枚になる。
これが、緡銭である。
置くと銭は、立っている。
当然、目に付く。
土が二つ付いた漢字が向かって右横にあると。
上が天なら、地は下の場所だ。
土が相応しい。
科挙に受かった知識人が気付かず、銭を使う市井の人が気付いたのかも知れない。
土が東では相応しくない。
だからではないか?
いずれにせよ、“乾封泉宝”銭は、廃止された。
理由は、想像するしかない。
七月十七日、
回鶻の英武威遠毘伽闕可汗に、粛宗の幼い娘、寧国公主を妻とするよう、命が下された。
殿中監、漢中王・うを、礼使とし、右司郞中・李せんを副とした。
左僕射・裴冕に、寧国公主を国境まで見送るように命が出た。
七月十八日、
司勳員外郞・鮮于叔明を、漢中王・うの副とした。
鮮于叔明は、(楊国忠に剣南節度使にまで引き立てられた)あの鮮于仲通の弟である。
七月二十四日、
粛宗は、寧国公主を咸陽まで送った。
寧国公主は、
国家が大切です。
死んでも、恨みません。
と、別れの挨拶をした。
粛宗は、涙を流して、長安に帰った。
漢中王・う等は、回鶻の可汗の陣屋に着いた。
可汗は、赤い袍を着て、胡の帽子をかぶり、帳の中の長椅子に座っていた。
儀式に参列する護衛の兵士は、厳かであった。
漢中王・う等を帳の外に案内した。
漢中王・うは、立ったまま、拝礼をしなかった。
可汗は、云った。
我も天可汗、唐と同じ天可汗の国の君主だ。
君臣には、礼儀がある。
何で、拝礼をしないのか?
漢中王・うと、鮮于叔明は答えた。
唐と諸国の婚姻は、皆、宗室の娘、公主との婚姻である。
今、天子・粛宗は、可汗に功績があるとした。
だから、我が娘を可汗の妻とするのである。
可汗を優遇すること、きわめて重い。
可汗、娘の婿が、妻の父親に何で、偉そうにするのか。
長椅子に座って冊命を受けるのか!
可汗は、姿勢を改めた。
起きて、冊命を受けた。
次の日、寧国公主は、回鶻の皇后、“可敦”として、冊立された。
国を挙げて、喜んだ。
七月二十五日、
郭子儀が、参内した。
逆賊・安太清を捕らえたので、献上するため、連れて来たのである。
八月三日、
青州、登州等、五州の節度使・許叔冀を、滑州、濮州等の六州の節度使とした。
八月十一日、
李光弼が参内した。
八月十七日、
郭子儀を、中書令とした。
李光弼を、侍中とした。
八月十八日、
郭子儀は、陣営に帰った。
回鶻が、その臣下である、骨啜特勒と帝徳を大将とした精鋭の騎馬兵三千騎を、安慶緖を撃つ助けとするため、遣わした。
粛宗は、朔方節度使の左武鋒使の僕固懐恩に、その三千騎を預けた。
信頼の証しと云える。