表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
227/347

杜甫と房かん

六月九日、

太一の壇を南の郊外の東に立てた。

漢の武帝が祀り始めた“神”である。

宰相の王よの願いに従ったのである。

粛宗は、かつて病気だった。

占いでは、山川の祟りだと云うことであった。

王よは、宦官と女の巫者を早馬で、天下の名山、大川に遣わし祀るように請うた。

粛宗は、許可した。

この仕事を任された巫者は、国の威光を頼みにして、賄賂を求め、行く先々の州県は煩わされた。

黄州にも巫者がいた。

年も盛りで美しく、無頼の若者を数十人従え、物事をそこない破ること甚だしかった。

黄州に居て、宿駅に泊まっていた。

刺史の左震が夜明け、駅に着いた。

門は閉ざされ、開かなかった。

駅舎は、役人のために、何時行っても、馬の交換ができ、食事、宿泊も出来るようになっている。

扉が開いていないなんて、駅舎の役人の怠慢である。

当然、左震は怒った。

門を破り、中に入った。

巫者を引摺り、階下で斬った。

従う処の若者を、皆、殺した。

そこにあった帳面には、州県からの賄賂が具体的に記録され、数十万文とのことであった。

おまけに貧民の租税を賄賂としたものであった。

遣わされた宦官は、都に還された。

粛宗は、罪は無いものとした。


開府儀同三司・李嗣業を懐州刺史とした。

鎮西、北庭行営節度使にも充てた。

山人・韓穎は、大衍暦を改めて、新しい暦を作った。

六月十七日、

初めて、穎暦を使った。

後で、至徳暦としたと云う。

六月三十日、

長安、洛陽の両京が、賊官に良くない状況にされた。

だから、正すように。

と、命が下った。

三司が、深く調べたが未だ終らず、皆、処分された。

身分をおとしめられたのだ。

降格者の処分は、続いた。


太子少師・房かんは、昨年五月から、官職を持たなくなっていた。

だから、今も気が晴れず、

年なので、多くの病を患っています。

と云って、朝廷に参内しなかった。

昨年も、朝議に出ないで、家に客を呼んで語らい、その場で、琴やらの楽器を奏でる董庭蘭が、客の選別をするのに賄賂を取ったとのことで、房かんは官職を失ったのである。

この話は、杜甫の登場で話が大きくなった。

杜甫は四月に、長安から逃げて来て、粛宗から、左拾遺の職を賜っていた。

左拾遺は、天子の側近で、諫言と正言を司るのが仕事である。

杜甫は、かつて、就職のため、人脈を作ろうと、いろんな人との繋がりを求めていたからか、房かんを知っていた。

だから、

房かんは文武に才能があります。

と、粛宗に処分を撤回するよう諫言したのである。

就任一か月後の、初めての仕事なので杜甫は気負い、つい言葉もきつく、激しい口調で粛宗に迫り、嫌われてしまった。

粛宗は、房かんを、陳陶沢の戦いのことでは、李泌の手前、罪に問わなかった。

しかし、戦うにしても、こちらは全滅に近く、相手側は、ほぼ無傷と云うのは、やはり腹立たしかったのであろう。

ましてや、唐はお金に困っているのである。

四万人近い兵士も失った。

それは、臣下たちも同じ想いであった。

房かんを罪に問う話は、ずっとくすぶり続けていたのである。

ましてや、郭子儀、李光弼の“お手伝いします。”との声掛けを断り、“我のやり方でします。”とまで、云ったのである。

そして、大敗したのである。

粛宗が罪に問わないものだから、武人たちは、大敗したら死をもって償わなければならない自分たちと、比べたであろう。

来たばかりでは、分からない、房かんの立場であった。

四十代半ば、今まで仕事らしい仕事はしていない。

仕事で一番煩わしのは、職場の人間関係なのである。

相手の気持ちに気を配ることに、慣れていなかったのである。

粛宗の怒りは激しく、杜甫を諮問するよう図ろうとした。

張縞は、粛宗に、

この事で杜甫を罰しますと、これから、諫言をする者がいなくなります。

と、提言した。

それで、粛宗は、杜甫を罰するのを断念した。

粛宗に嫌われると、周りの人の態度も冷やかになる。

粛宗は、杜甫が煩わしいのか、八月には、しばらく家に帰ってくるようにと、暇を出した。

事情を知らない家族は、喜んだであろう。

杜甫は、最初からつまずいたのである。

十一月、

杜甫は、長安に帰って来た。


房かんは、失職前と同じような生活を続けていた。

客は、朝夕、門に充ちた。

そして、その一党の者が朝廷で、

房かんは、文武の才能が有ります。

大役に用いて下さい。

と、云った。

粛宗は、“またか。”と、気を悪くした。

六月、

房かんの罪を数えあげて、幽州刺史に貶めるとの、命を下した。

前の祭酒・劉秩をろう州刺史とし、京兆尹・厳武を巴州刺史とした。

祭酒、祭酒とは、大学の長官である。

この祭酒・劉秩は、陳陶沢の戦いにおいて、房かんに、“曳落河は劉秩の敵ではない。”とされた、強者であった筈である。

だが、劉秩は大学の長官、文人であった。

ここら辺りのことも、粛宗の怒りの一因であろう。

皆、房かんの一党であった。

この時、杜甫も華州の司攻参軍として、長安を出された。

左拾遺であった期間は、一年二、三か月であった。

粛宗の側で仕えたのは、一年足らずである。


この頃、李白はどうしていたのか?

相変わらず、尋陽の牢にいた。

妻・宗氏らの嘆願の成果を、ひたすら待っていた。

この時、郭子儀が、自分の官職で李白の罪をあがないたいと、粛宗に嘆願した。

かつて若かりし時、郭子儀は、太原で、兵士たちの給料や食糧の上まえをはねていた上司と争いになり、軍規に触れたとされ牢に繋がれ、刑を待っていた。

その時、通りがかった李白に救われたと云う。

(この話は真偽が問われている。)

だが、天下兵馬副元帥の嘆願に、死刑は流刑となった。

八月、

李白は、夜郎やろうに流されることになった。

夜郎は、揚子江を遡って今の重慶に着く。

重慶から、南に二百キロ程の所にある桐梓である。

この夜郎は、“夜郎自大やろうじだい”と云う故事を持つ。

漢の時代に、夜郎国は西南地方の異民族の中で優勢だったので、自ら大なりと力を誇り、その族長が漢の使者に対して、“自分の国と漢の国と、どちらが大きいか?”と、問うたと云う故事である。

世間知らずで、知識も実力もないのに、人に対して尊大に振る舞うたとえとされる。

いずれにしても、田舎の山の中である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ