張通幽、杖死
張皇后は、興王・しょうを産んだ。
霊武で生まれた子だ。
わずか数才であった。
だが、皇后の息子だ。
嫡男である。
母親として、皇帝位を嗣がせたいと思っていた。
粛宗は、本心は、李俶を皇太子にと思っていたが、ためらって決められない風を装おった。
張皇后の気持ちが分かっていたからである。
そこで、穏やかな様子で、考功郞中、知制誥の李揆に云った。
成王・俶は年長だし、かつ、功績がある。
朕は、皇太子に立てたいと思うが、卿は、どう思う?
粛宗の一存では、決められ無かったのだ。
味方が欲しかったのである。
張皇后が李輔国と共に、何か文句を云いそうな気がしたのである。
李揆は拝礼して、お喜びを申し上げた。
これは国家の福です。
臣は、この慶びに優るものは無いと思います。
祝福を得た粛宗は、喜んで云った。
朕の心は、決まった。
臣下たちの気持ちを知り、安心したのである。
五月十九日、
成王・俶が、皇太子として決まった。
五月二十四日、
崔円を太子少師とし、李麟を少博とし、政事から手を引かせた。
粛宗は、とても、鬼神(神として祀られた霊魂)の話を好んだ。
太常少卿・王よは、鬼神の話で気に入られようと、礼儀としての、神に仕える巫祝や世俗の慣わし等の雑談を、いつも語った。
粛宗は、そんな話を喜んだ。
俶を皇太子にする事で、母親・杏が喜んでいるだろうと思って、会いたかったのかもしれない。
そして、王よを、中書侍郞、同平章事とした。
宰相である。
五月二十五日、
敦煌王・承さいが亡くなった。
承さいは、回鶻の公主を妻としていた。
唐の公主を回鶻に嫁がせることが決まっていたから、絆は、再び結ばれる。
かつて、唐の公主と蕃族との婚姻は、親戚の者を公主として嫁がせていた。
唐の力が弱くなっているので、これ以後、皇帝の実の娘を嫁がせるようになった。
故常山太守・顔杲卿は、太子太保の官職を贈られた。
諡は、“忠節”とされた。
そして、一緒に殺された息子・威明には、太僕丞が贈られた。
顔杲卿の死では、揚国忠が、張通幽の兄・張通儒が、安祿山の軍の幹部なので、張通幽を悪く云い、褒美等はなかった。
粛宗が、鳳翔にいた時、顔真卿は御史大夫であった。
顔真卿は、粛宗に泣いて訴えた。
顔杲卿が土門を開いたことを。
そして、話は捏造され、功績を奪われた事を。
粛宗は、その判断は玄宗によりなされ、張通幽は、玄宗を欺いたと思った。
粛宗は、張通幽を普安太守とした。
普安は、剣南にある。
玄宗に、主君を欺いた張通幽の処分を委せるためである。
張通幽は、太守になれると喜び勇んで、任地・普安に出かけたであろう。
事情は書状に書かれ、玄宗に上奏するため、張通幽に託されていた。
玄宗は、張通幽を杖殺した。
三人兄弟の張通幽の弟・張通晤も、安祿山の下にいた。
兵を挙げた安祿山が黄河を渡った後、張通晤はすい陽太守とされた。
兄のおかげで、抜擢されたのである。
だが、すい陽城は要地なので、張巡が守るのに苦労したように、すぐに攻撃され、張通晤は、ほぼ一ト月後には殺された。
土門を開いた上奏文を持って出かけた顔杲卿の息子、泉明は、常山に帰ろうとした。
その時、王承業は部下に、送って行く途中、機会を見て顔泉明を殺するように命じた。
だが、部下に断られたのである。
顔泉明が帰ると、張通幽と王承業の嘘がバレるので、太原に留め置いた。
そして、太原郡の中の寿陽県に仮住いをさせた。
まだ戦の最中で、攻めてきた史思明に、顔泉明は捕らわれた。
そして、顔杲卿の家族だとわかると、戦死者のように、(戦死者は馬の皮だが)牛の皮に包まれて、范陽に送られた。
洛陽ではなく、自分の管轄の地・范陽に送ったのである。
もうすでに、安慶緒を蔑ろにしていたのである。
丁度、安慶緒が即位した時であったので、恩赦がさあり、罪を許された。
史思明が投降したので、帰ってこれたのだ。
顔泉明は、父親の屍を求めて東京・洛陽に行った。
顔杲卿は、手や足を切られ、体をバラバラにされて殺された。
それは、部下の袁履謙も同じであった。
顔杲卿の首は、四方に道が通る大通りに、見せしめのため置かれたと、云う。
誰もいじらなかった。
棄市といって、恨みのある人は、遺体に危害を加えるのである。
それが、許されるのである。
安楽公主は、目をほじられたという。
ただ、張湊という者が、その髪を得ていた。
その髪を持ち、玄宗に拝謁した。
玄宗はその髪を見て、
これは昔、夢で見た。
と、言った。
そして、その髪を祀った。
後に、張湊は髪を持ちかえり、妻に見せた。
妻は、本当に顔杲卿の髪かと、疑った。
だが、その髪は、動いたようであったと云う。
顔泉明は、刑を行った者を見つけた。
顔杲卿の片方の足が先に切られ、掘った穴に放り込まれ、その同じ穴に袁履謙の切り刻まれた体と一緒に埋められたと云うことであった。
そこで、顔杲卿と一緒に殺された、袁履謙の屍と合わせて、棺に入れて持ち帰った。
顔杲卿の姉妹、娘たち、顔泉明の子どもたち、皆、河北地方で落ちぶれて流浪していた。
その時、顔真卿は、蒲州刺史であった。
甥の顔泉明を使って、河北地方に捜しに行かせた。
顔泉明は、泣いて捜し求め、道行く人の哀しみを誘った。
しばらくして、情報を得ることが出来た。
顔泉明は、親類や知り合いに捜し求めるように頼んだ。
いたる所で、多くはないが、購うことが出来た。
まずは、伯母、姉妹、そして、娘たちは後にした。
伯母たちは、賊軍の所に捕らえられていた。
顔泉明は、有り金二百緡で、欲しい一族の女子たちを購った。
伯母たちは、憂いやつれ、哀れな様子であった。
先ず、伯母たちを購い、顔真卿が用意してくれたお金で、見失うことなく求める女子たちを購った。
従姉妹たちと会えたが、顔杲卿の部下であった袁履謙の妻子たちも流浪していた。
声をかけて、皆で帰った。
おおよそ、五十家族であった。
三百人程であった。
生活に要るもの、食糧、同じように使った。
まるで一つの家族のようであった。
顔真卿の任地・蒲州に着くと、顔真卿がすべて不足を補ってくれた。
しばらくの間、行く先々に、適当な物資を送ってくれた。
袁履謙の妻は、棺の中の袁履謙の衣があまりにも粗末なので、つい、顔杲卿と同じでないのではと、疑った。
そこで、顔杲卿の棺を覗いて見た。
顔杲卿の衣も、袁履謙の衣と同じであった。
妻は、疑った自分を恥じた。
そして、その生き方に感服した。




