張鎬
張鎬、時の宰相である。
張鎬の経歴は、変わっている。
ただ、どうしても触れなければならないことがある。
資治通鑑の注では、
謂中人居権要者、如李輔国之類。
と、ある。
宦官・李輔国と同じ、と云っている。
同じように権力を持った中人なのである。
張鎬は、博州の人と云う。
山東地方である。
姿かたちは美しく、性格は心が広くてさっぱりとしていると云う。
経史と史書を、広く浅く好き勝手に読んで楽しんでいた。
特に、王者、覇者の話を皆で楽しんだ。
子供の時、唐を代表する学者、“呉競”を師匠としたと云う。
大切にされ、一室、与えられていたと云う。
張鎬のことは、旧唐書、新唐書にも、父親のこと、どんな家柄か等、触れられていない。
普通は書かれているのにだ。
ただ、呉競に師事するならば、普通の家の出、ではない。
良家の若様であったと、思える。
人を誘っては酒を飲み、琴や鼓を自ら楽しんだ。
特に琴は、常に携えていた。
口に出来ない想いを、琴を通して、語っていたのであろう。
張鎬は、足が悪いので、杖をついて出歩いた。
琴を持って、杖をついて歩くのは大変であろう。
琴は必需品だったのである。
そして、大きな志を持っていたと云う。
呉競は、天宝八載(749年)に亡くなっている。
八十才過ぎまで、元気で朝廷で仕事をしていたと云う。
だが、その老いを李林甫が嫌った。
それで辞めたと云う。
呉競は武后様当たりから仕え、叡宗様を弁護し、一人で学んでいたそうだ。
呉競が、もし若く、生きていたならば、張鎬の人生も変わったかもしれない。
張鎬は、揚国忠によって見出だされた。
揚国忠は、李林甫が死ぬと、すぐに宰相である自分を良く見せるために、奇傑な人物を国中に求めた。
参謀にしようと。
李林甫の時代、優秀な人は排除された。
杜甫のような才能ある者が、巷には溢れていただろう。
そして、その中から選ばれ、薦められたのが、張鎬であった。
揚国忠のことだ。
優秀な“裏方”を求めた筈だ。
張鎬は、宮中で仕えようとして、中人になったわけではない者だ。
ただ、中人なので、表には出たがらないだろう。
国忠を差し置いて、しゃしゃり出ることはないだろう。
張鎬は、揚国忠の願ったり叶ったりの人物であったのである。
会った時、左拾遺の官職を給った。
張鎬は、自ら、身分の低い者が着る毛織物の衣を脱ぎ、絹の官服を着て、官職を授かった。
張鎬の名が最初に出てくるのは、宰相に任じられた時、日々、何百人もの僧侶に読経をさせていた粛宗に、諫言したことだ。
粛宗は、納得して、読経を辞めさせた。
人を良く見ていて、潁川太守に、左さん善大夫の“来てん”を、推薦した。
来てんは、縦横の計略を持ち、臨機応変に対応するとのことでの薦めであった。
その来てんは、そのあまりの強さに、鉄を食べているのではと、“来嚼鉄”と、呼ばれた。
揚国忠の戦の相談に、何人もの人を推挙している。
玄宗が長安を出て、馬嵬に行った時、揚国忠は殺された。
張鎬は、蜀に向かう玄宗に、そのまま付き従った。
杖を付いて、歩いてだ。
常に離さなかった琴は、大変だけれども、携えていただろう。
揚国忠の配下の者だから、周りの人は親切ではなかった筈だ。
杖をついているからといって、誰も、馬車の端に座るようには、声を掛けなかっただろう。
蜀において、数少ない文官で今後の事を話し合ったであろう。
その時、諫議大夫を拜している。
名前は知られてなくても、揚国忠を通じて、色々な案件に接していたであろう。
李林甫の死が天宝十一載(752年)十一月、揚国忠の死が至徳元年(756年)六月、選ばれたのが天宝十二載として、足掛け四年、揚国忠を裏で支えた。
他の人とは、経験が違う。
やはり、貴重な発言があったのだろう。
だから、粛宗が霊武で即位した時、玄宗は粛宗の下に張鎬を送っている。
役に立つだろうと。
しばらくして、粛宗は、諫議大夫の張鎬を中書侍郞、同中書門下平章事とし、宰相としたのだ。
張鎬は、出来る人だったのである。
張鎬は、そういう人であった。
その張鎬が、史思明が投降したいと云う話を聞いた。
張鎬は粛宗に云った。
史思明は危険な悪者です。
乱の時は、官職、官位を盗みました。
強い力で、兵士たちを惹き付けます。
兵士たちが離れようとすると、権勢を使って離れさせません。
彼は人の顔をしていますが、心は野獣のようです。
彼に徳を見いだすのは、難しいでしょう。
陛下は、人を怖れさせ、服従させる力と権力をもって、もしものことが無いように対応して下さい。
お願いします。
続けて云った。
滑州防禦使の許叔冀は、ずる賢くて嘘が多いです。
難しいことに会えば、必ず心変りがします。
警護の者の宿営に入れ、元の役に戻すようお願いします。
この時粛宗は、史思明を寵愛していた。
ただし、張鎬の話が気になったので、宦官を、史思明担当の范陽節度使と、許叔冀の担当の滑州の白馬県に様子を見に行かせた。
帰ってきた宦官が云うには、
史思明も許叔冀も、皆、心から信じられると言っていました。
このことから、粛宗は、張鎬は今の仕事には向いていないと判断した。
五月十七日、
張鎬を罷免して、荊州防禦使とした。
河南節度使も辞めさせ、礼部尚書の崔光遠を河南節度使とした。
後に、史思明、許叔冀の二人は、張鎬の言葉通り、叛くことになる。