英武軍
上皇・玄宗は、粛宗の尊号を
“光天文武大聖孝感皇帝”とした。
郭子儀は、東都・洛陽に帰った。
河北地方を運営するためである。
崔器と呂えんは、粛宗に提言した。
家臣たちは、陥れられました。
国に背き、偽者に従ったのです。
法律に従うと皆、罪に応じて、“死刑”になります。
粛宗は、従いたいとした。
李けんも、
賊軍は、両京、すなわち洛陽と長安を落としました。
玄宗様は、南方にお出ましになり、人は逃げて生き延びました。
この人たちは、皆、陛下の親戚や、あるいは、昔からの勲臣の子孫です。
今、法律で謀反の罪は、おおむね死刑です。
恐れながら、情けの道とは相容れません。
かつ、河北地方は、まだ平定されておりません。
臣下たちで、賊軍に陥れられた者がなお多いのです。
もし、緩かに接してくだされば、自ら、新しい道が開けるでしょう。
もし、皆を罰したならば、反って、賊の心に堅く付き従うことになるでしょう。
粛宗は、李けんの意見に従うことにした。
そして、六等の罪を定めた。
刑の重い者は、市に於いて、見せしめのために死刑とする。
次は、自死を賜る。
他人の目のない処で、自殺するようにとのこと。
次に重い刑は、杖刑百回。
次は、身分を貶めて、流刑。
十二月二十九日、
達奚しゅん等、十八人が、長安城の西南の一本柳の木の下で斬られた。
陳希烈等、七人が大理寺で自死を賜った。
杖刑の者は、京兆府門で、刑が行われた。
公の場での執行は、見せしめの意味が大きい。
粛宗は、張均、張きの“死刑”を免じたいと思った
玄宗は云った。
張均と張きは、賊軍に仕えた。
それも、権力のある重要な地位に就いてだ。
張均は賊軍の為に、我の家庭内のことに触れ、謗った。
その罪はとても許せない。
粛宗は、頭を床に打ち付け、何度も拝んで云った。
臣は、張説親子が居なければ、今日は無かったでしょう。
臣は、張均も張きも生かせません。
死者である張説は、知るでしょう。
何の面目があって、あの世で張説に会えるでしょうか!
そして、体を伏せて涙を流した。
玄宗は、左右の者に粛宗を助け起こさせた。
そして、云った。
張きは、そなたの為に、嶺表に流刑とする。
張均は、必ず生かす無かれ。
そなたは、これ以上助けるなかれ。
粛宗は、泣いて命令に従った。
安祿山の統治下、河南府の尹・張万頃は、賊軍がいる時、百姓が、連座で罪を問われないように一人で、庇い守った。
その頃、賊軍の中から、自ら、やって来た者がいた。
言うことには、
唐の群臣で、ぎょう城にいる安慶緒に従っている者たちは、
広平王・俶が陳希烈たちを許したと聞いて、賊軍の朝廷に身を置いた過ちを、残念がっていました。
しかし、陳希烈たちが罰せられたと聞くにおよび、悔やむのを止めました。
それを聞いた粛宗は、とても後悔した。
粛宗が皇太子時代、正妃であった韋氏の兄・韋堅が、李林甫の標的にされたので、粛宗は、関わりを恐れ離縁した。
韋氏は、廃妃となったのである。
粛宗は、いずれ力を持ったなら一族と共に助けるつもりであったが、この年(757年)亡くなった。
離縁したのが、天宝五載(746年)九月であったから、足掛け十二年、宮中の質素な寺で過ごしたことになる。
宮中で皇帝を守る護衛兵として、粛宗は、新たに左神武軍、右神武軍を置いた。
馬嵬から霊武に随行した兵士の子弟から兵士を選んだのだ。(玄宗が長安に帰る時、兵士は、来た時の数の通り六百人を連れ帰った。粛宗が霊武に連れて行った兵士の数は、当然もっと少ない。)
太宗は最初、元従禁軍を作り、禁軍の基礎を作ったとされる。
龍朔二年(662年)、高宗が左右羽林軍を作った。
時を経るにつれ、数も増やしていった。
開元二十六年(738年)、玄宗は左右龍武軍を作った。
玄宗の時代、左羽林軍、右羽林軍と左龍武軍、右龍武軍、合わせて四軍を正規軍とした。
一軍、一万五千人、四軍、計六万人である。
英武軍、
これは、粛宗が置いた左神武軍、右神武軍の事である。
面白い事に、皇帝は代が変わるごとに、今までの禁軍の他に、自分の軍、いや、自分を守らせる軍を作っている。
前の皇帝に忠誠を誓った軍では、忠誠が足らないかのように。
粛宗も、左右神武軍を今までの四軍と合わせて、北牙六軍とした。
また、英武軍と号して、弓の得意な者千人を選び、宮殿の前を弓で守らせたと云う。
河中防禦使を節度使に昇格させ、蒲州、絳州、隰州、慈州、晋州、かく州、同州の七州を蒲州で治めさせた。
剣南節度使を、東川節度使と西川節度使に分けた。
東川節度使は、梓州、遂州、綿州、剣州、龍州、ろう州、普州、陵州、瀘州、栄州、資州、簡州の十二州を梓州で治めさせた。
また、荊れい節度使を置き、荊州、れい州等五州を治めさせた。
き峡節度使は、き州と峡州等五州を治めた。
更に、安西節度使を鎮西節度使とした。