張巡の評価
十二月十五日、
粛宗は、丹鳳楼に出御し、天下に恩赦を発した。
ただし、安祿山、安祿山と一緒に謀反を起こした者、李林甫、王きょう、楊国忠の子孫は、恩赦の対象にはならなかった。
そして、広平郡王・俶は、皇帝の息子・親王として、楚王(これまでは皇太子の息子として、郡を委されていたが、皇帝の息子として州を委されることとなった。)に封じられた。
(楚王としたのは、玄宗が初めて封じられたのが楚王であったから、当初、名君とされた玄宗に、倣ったのであろう。)
郭子儀は(今までの官職の他に)司徒に、李光弼は司空に任じられた。
その他、蜀郡、霊武に従った者には、皆、階級を進めたり、爵を賜ったり、食邑を加えられたりした。
各々、差はあった。
李とう、盧奕は洛陽を守って死んだ。
顔杲卿、袁履謙は、常山を守って死んだ。
許遠、張巡はすい陽を守って死んだ。
張介然は永陽を守って死んだ。
ろう堅は潁川を守って死んだ。
その者たち皆の官職に、加増がなされた。
また、その子孫、戦って主が亡くなった家には、二年の間、俸祿が支給され、税が免除された。
郡県も来年の租(穀物)、庸(夫役・人夫を徴用する税)が、三分の一免除された。
近所の郡名も、官名も、故事によって改められた。
だから、長安を中心として、蜀郡を南京、鳳翔を西京、洛陽に対して、西京と呼ばれていた長安を中京、洛陽はそのまま東京、唐の発祥の地、太原を北京とした。
そして、張良ていを俶妃とした。
粛宗の息子たちを、親王として封じた。
南陽王・係を趙王とし、新城王・きんを彭王とし、潁川王・間をえん王とし、東陽王・ていをけい王とし、おうを襄王とし、すいを杞王とし、偲を召王とし、しょうを興王とし、どうを定王とした。
張巡が、すい陽城を去らないで城を守り、皆と、人を食べた罪がどうであるかが議論された。
張巡の友である李翰が、張巡の伝記を作り、粛宗に上奏した。
張巡は、少しの兵士で大勢の兵士を撃ちました。
弱でもって、強を制したのです。
揚子江、淮水を守り、陛下の軍を待ちました。
官軍が来た時、張巡は死んでいました。
張巡の功績は大きいのです。
人は、張巡が人を食べた罪を議論します。
張巡は、城を守って死ぬなんて愚かです。
良い処には目もくれず、悪い処を揚げつらう。
悪い処を書き記し、良い働きは棄てる。
我は、人知れず悲しみます。
張巡は、委された場所を固く守る者です。
そして、どこかの軍が助けに来てくれるのを、待ったのです。
食べる物が尽きたのに、助けは、来ませんでした。
食べる物が尽きたので、人を食べたのです。
それは、本来の志ではありません。
張巡は、城を守ろうとした最初は、人を食べる気持ちはありませんでした。
天下すべての人をもって、数百人の人を損なう。
我はなお、その功績は過ちを覆い隠すと思います。
いわんや、元々の志では無いのです!
今、張巡は大きな災いでまた死にます。
張巡の功績が殺されます。
物事が立派で麗しいのが、疑われています。
ただ高い身分の官職と、立派な名前が残るだけです。
もし、この記録がなければ、恐らく、距離的にも、時間的にも遠くの人には、張巡の行いは正しく伝わりません。
張巡の生き方は不運です。
誠に、可哀想でなりません。
我はあえて、張巡の伝記一巻を献上します。
そして、ここにおいでの史官の方々に、まとめて下さるようにお願いします。
と、述べた。
議論は、これで終わった。
この後、李とう等に、恩赦が及ばないことはなかった。
程千里は、一人賊軍の朝廷に捕らえられ、生き残っていた。
褒美はなかった。
十二月二十一日、
玄宗は、宣政殿にお出ましになった。
そして、“伝国宝”を、粛宗に賜った。
粛宗は、泣きながら“伝国宝”を、受け取った。
“伝国宝”、唐の時代には、そう呼ばれた。
秦の始皇帝が使い始めた玉製の印、“伝国璽”である。
帝位を嗣ぐ者が譲り受けている物である。
伝国宝は、昨年(至徳元載・756年)八月、玄宗が、粛宗が帝位に即いたと聞き、韋見素、房かん、崔奐に命じて、成都から霊武に運ばせたのである。
だが、粛宗は、受け取りを拒み、別殿に保管していたのである。
李泌の話を聞き、正統性を主張出来るように、玄宗の手から、直接、賜る形を取るようにしたのである。