玄宗、帰還
十一月二十二日、
上皇・玄宗は、鳳翔に着いた。
従っている兵士は、六百人程であった。
玄宗は、残りの兵士は武装させ、成都の軍に入れたのである。
玄宗が、成都に着いた時は、従者、役人、兵士、合わせて千三百人であった。
だから、連れて来た兵士の数だけ、お供としたのである。
粛宗は、三千の精鋭の騎馬兵を出迎えのために出発させた。
十二月三日、
玄宗は、咸陽に着いた。
粛宗は、望賢宮に天子の乗る法駕を用意していた。
玄宗は、宮殿の南楼にいた。
粛宗は、黄色の袍を脱いだ。
そして、紫色の袍を着た。
それから、南楼が見える処で馬を降りて、貴人、目上の人に対する礼儀として、小走りに進み、楼の下で、これも礼儀として、喜びを表すために拜舞をした。
玄宗は、楼から降りて来て、粛宗を撫でて泣いた。
粛宗は、玄宗の足を捧げもった。
我慢できず、泣き声がもれた。
玄宗は、黄色の袍を探し、自ら粛宗に着せた。
粛宗は、地に伏せ首を垂れ、固く断った。
玄宗は言った。
天の定めも、民の心も、皆、そなたに集まっている。
朕の残りの人生を保ってくれたなら、それは、そなたの孝心である!
粛宗は、断れなかった。
黄色の袍を、受け取った。
儀杖兵たちは、玄宗、粛宗を守るため、取り囲んでいた。
この場にいた老人たちは、儀杖兵の囲いの外にいた。
歓びの声をあげ、なおかつ、玄宗、粛宗の二人を拝んだ。
粛宗は、儀杖兵の囲いを開くように命じた。
千人以上の人がなだれ込み、玄宗様に拝謁した。
民たちは、言った。
我々は、今日、再び、二人の聖人を拝見することが出来ました。
死んでも悔いはありません。
玄宗は、正殿に居ることを拒んだ。
云うことには、
ここは、天子のいるところだ。
粛宗は、強くお願いした。
そして、自ら、玄宗に寄り添って、階段を登った。
それから、食事になり、粛宗は、一皿一皿、味を確かめ、薦めた。
十二月四日、
望賢宮を出発しようとした時、粛宗は玄宗の馴れている馬を、玄宗の傍に進めた。
玄宗は、馬に乗った。
粛宗は、おもがいを手に取った。
馬を数歩、おもがいを引いて歩かせた。
玄宗は、止まるように言った。
粛宗は、玄宗の馬を前に引いていた。
だが、自分は敢えて、馳道(天子や貴人が通ると決められた道)は、通らなかった。
自分は馳道を通らずに、玄宗の乗った馬は馳道を歩かせたのである。
玄宗は、左右の人に云った。
我は、五十年、天子であった。
だが、未だに貴くはなかった。
今、天子の父となって、初めて貴くなった。
左右の皆が、“万歳”と叫んだ。
玄宗は、大明宮の開遠門を自ら開き、含元殿に行き、文武百官を慰撫した。
長楽殿に詣でて、九廟の主に詫び、しばらく慟哭した。
その日の内に、興慶宮に行き、住むこととした。
興慶宮には龍池があり、龍がいたとされていた。
この龍は、玄宗が長安を去った後、風雨の時、西南に去ったという。
玄宗が帰った興慶宮には、もう龍はいなかった。
粛宗は、“皇位を辞めて、東宮に帰りたい。”と、重ねて上奏した。
だが、玄宗は許さなかった。
十二月八日、
礼部尚書・李げん、兵部侍郎・呂?を詳理使とした。
御史大夫・崔器と共に、陳希烈ら獄に繋がれている者たちを取り調べるようにとの事であった。
李げんは、殿中御史・李せいいんを詳理判官とした。
李せいいんは、多くの任務をいつも思いやりを持ってした。
亡くなった人は、生前、呂?と崔器を酷いと云った。
李げんは一人、良い評判を得た。