勝ち戦の褒美
かつて、きゅう郡の甄済は品行方正で有名であった。
そして、青厳山に隠居していた。
安祿山が、采訪使と掌書記として上奏した。
甄済は、しばらくして、安祿山が謀反の心を持っていると、察知した。
だから、風疾を患ったかのように騙し、家に戸板に担がれて帰った。
安祿山が謀反を起こした。
安祿山の使いの者・蔡希徳が来た。
連れて来た刑を行う者二人が、刀を突き付けた。
甄済は、その刀を引っ張って首に当てた。
蔡希徳は、本当に病だと、安祿山に告げた。
その後、安慶緒が甄済を戸板に乗せ、二人に担がせ、強引に洛陽に連れて来させた。
権威のない賊軍としては、欲しい人物であったようだ。
一ト月あまりして、広平王・俶が洛陽を平定した。
甄済は、起きあがり、軍門にやって来て、広平王・俶に面会した。
広平王・俶は、長安に行かせた。
粛宗は、賊軍から官爵を受けた者を取り調べる三司の役所の館に居るように甄済に命じた。
賊軍から官職を得た者を並ばせ、恥ずかしい思いをさせようとした。
そして、甄済を秘書郎とした。
国子司業・蘇源明は、病と称して、安祿山から、官職を受けなかった。
粛宗は、蘇源明を抜擢して考功郎中とした。
詔として発表した。
十一月二十八日、
粛宗は、丹鳳門に出かけ、詔を下した。
武士、庶民で、賊軍から官職を受けた者、賊軍から用いられた者、三司でどのような条件であったか聞くので上奏するように。
原因は、
戦で囚われたから、
賊軍が住んでいる処にとても近かったから、
賊軍と往き来する者がいたなど、
皆、自首すれば、余罪も聞くこととする。
その者たちの子女で賊軍に汚された者は、罪を問うことはない、とした。
十月二十九日、
回鶻・葉護が洛陽から帰ってきた。
粛宗は、百官に命じて、長安から、少し東の長楽駅で迎えさせた。
粛宗は、葉護と、宣政殿で宴会をした。
葉護は、上奏した。
軍中の馬が少なくなったので、兵士を沙苑に留め置きたいのです。
我が馬を取りに帰り、帰ってきたら、陛下のために、范陽を余すところなく掃除します。
粛宗は、葉護に賜物を遣わした。
十一月、
広平王・俶が、郭子儀と洛陽から来た。
粛宗は、郭子儀を労って、
我家、国は、卿のお陰で、また作り直された。
と、云った。
張鎬は魯けい、来てん、呉王・祗、李嗣業、李奐たちを率いていた。
彼らを五節度使として河南地方、河東地方の郡県に赴任させた。
ただ、北海には能元皓がいて、大同には高秀厳がいて、いまだ、唐の下には入っていなかった。
十一月十五日、
回鶻・葉護を司空とし、忠義王とした。
年に絹二万匹を回鶻に遣わすこととし、朔方軍(霊武)で受け渡しをすることを決めた。
投降した厳荘を、司農卿とした。
粛宗は、彭原にいた。
太廟での儀礼は、一年半の間、為されていない。
だが、長安に帰ったからといって、太廟は焼かれていて、ちゃんとした儀式をできる状態ではなかった。
だから、彭原に簡単な廟を建てたのであろう。
九廟を祀るにあたって、今、十一月は、いつもの供え物がない。
いつもなら、事前に、担当箇部門で、遠くの産物でもあらかじめ用意している、
だが今は、非常事態だ。
だから、今回は礼を改めて、今の季節の産物、手に入り易い、“栗”を供えることにしたのだろう。
十一月十六日、
大明宮の長楽殿で、粛宗は祝賀を受けた。