投降、相次ぐ
成都に送った使いが帰って来た。
上皇様は、
我の味方である剣南地方への一本の道を、自らに献上する。
もう通ることは無い。
と、おっしゃったそうです。
粛宗は、憂い怖れた。
どうしていいか、分からなかった。
帰った使者が、また、云った。
上皇様に、初めて陛下が東宮に帰りたいと、上奏しました。
そうしたら、行きつ戻りつして、食事は食べず、帰りたくないと、おっしゃいました。
臣下たちが、
長安に帰っていただきたい。
と、上奏するに及び、上皇様は大喜び。
食事を作るように命じて、楽しく食べられました。
そして、長安に帰る日を決められ、実行するよう命を下しました。
粛宗は、李泌を召して告げられた。
みんな、卿のお陰です!
李泌は、山に帰るのを求めて止まなかった。
粛宗は、朝廷に留まるように強く云ったが、思い通りにはならず、衡山に帰る願いを聞かざるを得なかった。
衡山のある郡県に命じて、その山の中に家を建てさせた。
そして、三品の給金を賜った。
十月十九日、
粛宗は、長安に向け、鳳翔を出発した。
太子太師の韋見素が蜀に行き、上皇・玄宗様を長安に迎えるように奉った。
十月二十一日、
郭子儀が、左兵馬使・張用済と右武鋒使・渾釈之に黄河の北の地方で、徴兵をするように、命じた。
厳荘が、投降して来た。
安慶緒が長安と洛陽を失ったので、燕の国に将来はないと考えての決断であった。
安慶緒の人物に、自らを託せないと判断したのであろう。
安祿山を殺した時、理路整然と話が出来ないからと、部下に会わせないようにしたことからも分かる。
唐側にしたら、燕の朝廷の中枢にいた人物である。
情報を期待したのであろう。
安祿山の側近四人の内の一人であった。
安祿山を殺すように提案し、皆を説得したのも厳荘である。
計算高い、節操のない人物と云える。
陳留の人が尹子奇を殺し、郡を挙げて投降してきた。
田承嗣が、潁川で来てんを囲んでいた。
田承嗣は、投降するとの使いを寄こした。
郭子儀は、厳しくなく緩く応じた。
そうしたら、田承嗣はまた謀反を起こして、武令じゅんたち皆と、河北地方に走った。
来てんを、河南節度使とした。
十月二十二日、
粛宗は、かん陽県の東にある“望賢宮”に入った。
そこで、
洛陽を速やかに得た。
との、上奏を受けた。
十月二十三日、
粛宗は、長安城に入った。
百姓は、金光門を出て、出迎えた。
二十里ほど、出迎えの人が続いて、人が途絶えることが無かった。
舞ったり、飛んだり跳ねたりして、“万歳”を叫んだ。
泣く人もいた。
粛宗は、大明宮に入った。
御史中丞の崔器が命じて、賊軍から、官職を受けた者全員を、頭巾を脱がせ、裸足で含元殿の前に立たせた。
彼らは、胸を手で叩き、首を垂れ、罪を請うた。
兵士が輪になり、取り囲んだ。
遣わした百官が、立ちあってこの様子を見た。
太廟は、賊軍に燃やされていた。
粛宗は、白い衣を着て、廟に向かって、三日間哭いた。
この日上皇・玄宗は、蜀郡を出発した。
安慶緒は、ぎょう城に逃げて、居所とした。
ぎょう郡を改めて、安成府とした。
また、改元をして、“天成”とした。
従った騎兵は三百騎に過ぎず、歩兵は千人を過ぎなかった。
阿史那承慶ら将軍たちが、常山、趙郡、汎陽と、担当部署に散って行った。
十日の間に、蔡希徳は上党に、田承嗣は潁川に、武令じゅんは南陽に、各々の部署に兵士と共に帰って行った。
また、河北地方の諸郡で募った兵士が、六万人になった。
軍の勢いが、再び盛んになった。
広平王・俶は、洛陽に入っていた。
安祿山父子に、百官の官職を受けた者、陳希烈たち三百人以上、皆、白い衣を着て、泣いて罪を請うた。
広平王・俶は、粛宗の気持ちを知りたいと、意向を聞くために長安に出かけた。
昇に会おう。
珠珠を失っても、平然としている父親に怒っているだろう。
母が言っていた。
女の子は我儘でもいいと。
母親を失って、悲しんでいるだろう。
これからは、蓮が珠珠の分まで愛さなければ。
十月二十八日、
崔器は、罪人たちに、長安に於ける儀礼のように、朝堂に詣で、罪を請うように命じた。
しかる後、捕らえ、大理寺、京兆府の牢獄に繋いだ。
また、その府県で、安祿山を神と崇め従い、賊軍に使われたり、追捕者として働いた者は皆、捕らえられ獄に繋がれた。