洛陽、入城
郭子儀が、潼関を陥落させたものだから、張通儒、安守忠、李帰仁、田乾真たちは、兵士を集めて、陝城に走った。
陝城が落ちると、次は、洛陽である。
知らせを聞いた安慶緒は、洛陽のすべての兵士を、御史大夫・厳荘を使って陝城に連れて行かせた。
潼関からいた兵士と、洛陽からの兵士、歩兵、騎兵合わせて十五万人を、張通儒を総大将として、官軍を防ぐように命じた。
十月十五日、
広平王・俶が、陝郡の曲沃に着いた。
回鶻の葉護が将軍・鼻施吐撥裴羅たちの軍を率いて、南山に身を隠す処を捜した。
そして、南山の嶺の北に軍を駐屯させた。
郭子儀と李嗣業たちは、陝城の西の新店で賊軍と出会った。
賊軍は、山を背にして並んでいた。
だから、後ろからの敵を考えなくてよかった。
郭子儀たちは、戦いの初めは不利であった。
賊軍は、遂に、山を下りて襲った。
賊軍が前に動いたことで、後ろが空いた。
回鶻は、南山から、賊軍の背に襲いかかった。
賊軍の後ろの山の斜面を滑り下りたのだった。
黄色の土埃が舞うなかで、十以上の矢が放たれた。
賊軍は、驚いて振り返った。
回鶻が来た!
賊軍の態勢が、遂に崩れた。
官軍と回鶻は、挟んで攻撃した。
賊軍は大敗した。
倒れた屍が野を覆った。
大型兵器や盾や矛などの兵器が、陝郡から、洛陽までの道に棄てられ、すき間がない程であった。
厳荘、張通儒らは、陝城を棄て東に走った。
広平王・俶と郭子儀は、陝城に入った。
僕固懐恩たちは 賊軍を追って、その道をそのまま走った。
厳荘は、先に洛陽を入り、安慶緒に報告した。
安慶緒は、官軍の中に回鶻軍が居るのを聞いて、闘いを回避、止めることを決めた。
勝てないと、解ったからだ。
十月十八日の夜、
安慶緒が長となって、一族を連れ、宮城の北東の安寧門から、禁苑に入り、中を通り、外に通じる門から出た。
そして、黄河を渡り、河北に入った。
仕方がない。
兵士は、すべて陝城の戦いに出したのだから。
洛陽城を守る者は、いないのだ。
おまけに、回鶻が居ると云う。
逃げるしかないのだ。
厳荘に命じて、哥舒翰、程千里たち、人質としていた三十人余りを殺させた。
許遠は、まだ洛陽に着いていなかったので、その時いた、偃師で殺された。
十月十八日、
広平王・俶が、東都・洛陽に入った。
回鶻は、約束通り、満足することなく略奪をした。
おぞましい光景に、広平王・俶は苦しんだ。
洛陽の父老たちが皆で“これで勘弁願います。”と、様々な絹織り物一万匹を、回鶻に贈った。
回鶻は、そこで、略奪を止めた。
責任者として、珠珠と昇平のもとに、とてもすぐには、行けなかった。