張巡の戦い
七月六日、
尹子奇が、再び、数万の兵を率いて、すい陽を攻めて来た。
左目には、黒い眼帯がされていた。
眼帯をしているだけで、凄みがあった。
さぞ、恨んでいることだろう。
これより前、許遠は城の中に六万石の食糧を積んでいた。
こ王・巨は、濮陽郡と済陰郡の二郡にその半分、三万石を渡すようにと、言った。
許遠は激しく抵抗した。
だが、食糧を守れなかった。
城の食糧は、三万石になった。
そして、済陰郡は食糧を得ると、謀反を起こした。
だから、すう陽城は、この頃、食糧が尽きていた。
賊軍がやって来た。
戦わなければならないのに。
将軍、兵士、皆、一日の食いぶちが一合であった。
紙を茶で煮たり、樹の皮を剥いだりして食べた。
賊軍が食糧を運び込むのを見て、何度か、襲ったが、上手くいかなかった。
皆、お腹が減っていて機敏な動きが出来なかったのである。
すい陽の将士は、昇進することも、褒美を貰うこともなく、死んでいった。
どこの軍も食糧を持って、助けに来てはくれなかった。
兵士たちは、数が減って、一千六百人となった。
皆、飢えて病気になり、戦えなかった。
遂に、賊軍に囲まれることとなった。
張巡は、防衛のための兵器を整えて、抵抗した。
賊軍は、虹を半分にした形の雲梯を用意していた。
車輪が六つ付いていて移動出来、折り畳み式の梯子を設置しており、それを伸ばしたら、それこそ雲の間から、城を覗けるような、とても高くなる梯子であった。
その上に、板を渡した台があり、二百人の精鋭の兵士がいた。
雲梯を押し、城の側に寄せ、台を押し上げようとした。
張巡は、予め、城の上に穴を三つ掘り、様子を伺い、梯子がまさに側まで来た時、その一つ一つの穴に、木を入れ、立たせた。
一つの大きな木には、端っこに鉄の鉤を置き、その鉤を雲梯の台に引っ掛け、台が退け無いようにした。
もう一つの立てた木は隣の木との間を、兵士を乗せた台より短い長さにしていた。
だから、台は、城の上に後少しで近寄れなかった。
最後の立てた丸太の端には、火が盛んに燃えている、鉄の籠を置いた。
退けず、進めず、兵士たちは、空中にいた。
鉄の籠の火は、梯子を焙り始めた。
梯子は焼けた所から折れ、台にも火が移り、梯子の上の兵たちは、皆、焼け死んだ。
賊軍は、今度は、(敵から城を守るために城から木を突き出している所に、木を渡し、棚にした)物見やぐらに、鉤車の鉤を引っ掛け、引っ張った。
鉤の届く所の櫓は、全て崩れた。
張巡は、大木の端っこに、大きな鉄の輪を固定して、輪に連なった鎖で、その鉤の頭を動けないようにした。
もう、鉤は使えなかった。
兵車が城に入って来た。
そして、その鉤の頭の鎖を解き、車に載せて去って行った。
賊軍は、又、木で作った驢馬で城を攻めた。
張巡は、金属を溶かした汁を注ぎかけた。
金属を溶かしては、応じて投げかけた。
賊軍は、又、城の西北の隅の植え込みに、土嚢を積み上げて土の坂道にしようとした。
そこから、城に登ろうとしたのである。
張巡は、争わなかった。
ただ、毎晩、松明を植え込みに潜ませた。
そして、乾いた藁をその上に投げ入れた。
藁で発火させようとしたのである。
松明は、松の木で作られている。
松は、乾燥させても油分があり、燃えやすい。
十日以上、続けた。
賊軍は気が付かなかった。
賊軍は出陣した。
その土嚢の坂道を登っていると、風が吹き、火が燃え始めた。
火矢を放ったのかも知れない。
賊軍は、火の勢いがあり、登っていた賊兵を救うことが出来なかった。
火は燃え続け、二十日以上経ってから、下火となった。
張巡の為すところであった。
張巡は事に応じて機敏に働き、弁舌は巧みなので、賊軍の皆は、その知恵に感服した。
あえて、また攻めようとはしなかった。
そして、城の外に壕を三重に掘った。
張巡は、城を守るために、立ち木を柵とした。
また、城の中に壕を掘って、賊軍を拒んだ。
七月六日、
賊将・安武臣が陝郡城に攻めて来た。
陝郡城を、賊軍から奪い返した、楊務欽が戦死した。
賊軍は、遂に、陝郡城を再び手に入れた。
賊軍は、この前、楊務欽に巧く城を奪われた。
その腹いせもあって、多くの庶民を虐殺した。
崔渙は、江南地方にいて、補佐をする人に選ばれたが、民の物を掠め取るようなことをした。
八月、
崔渙は辞めさせられた。
そして、余杭太守、江東采訪使・防禦使となった。
余杭郡は、杭州にある。
杭州は、揚子江の南にある、銭塘江の川口にある。
張鎬に、河南節度使と采訪使を兼ねさせることにした。
だが、張鎬は宰相なので、賀蘭進明に代理をさせることとなった。
霊昌太守の許叔冀は賊軍に囲まれた。
助けの兵は来なかった。
だから、民の間を抜け出し、彭城に逃げた。