軽い官爵
この頃、仮御所の倉庫には、何も入っていなかった。
だから、朝廷からの褒美は、専ら官爵であった。
諸将が戦に出かける時は、皆、官位が書き込まれていない、辞令書を貰った。
上の位の者は、開府、特進、列卿、大将軍、下の位の者は、中郎、郎将等、その時に応じて官位を自分で書き込めるようにしていた。
また、未だ辞令書を貰ってない者に官爵を与える証明書もあったと云う。
皇室の“李”姓でない者で、勝手に“王”となる者までいたと云う。
ただ、軍隊では、その職の高い者が低い者を統率するので、官爵の序列が覆る事はなかった。
郭子儀の清渠の戦いでの敗北で、逃げて散り散りになった兵士たちが、罪に問われるのを恐れて、賊軍に帰順しないように、官爵で受け入れるようにしていた。
そんなこんなで、“官爵”は軽く、“貨幣”は重いこととなった。
大将軍の辞令書一通が、やっと酒一回分の値打ちであった。
募集に応じて軍に入る者は、すべて金紫の衣を着た。
朝廷の役人で、召し使いにいたるまで、大官を名乗り、(本来ならば、高位、高官の者が着る)金紫の衣を着ていた。
そして、賎しい者のする仕事をしていた。
爵位を持つ者が溢れ、ここに至ることとなったのである。
一方、房かんは、国が多くの困難がある時にもかかわらず、高尚なことを考え、おおらかであった。
そして、
年なので色々な病気を抱えていますから。
と云って、朝議に参加しなかった。
任じられている職の仕事をする気はなかった。
そして、日々、庶子・劉秩、諫議大夫・李揖と、釈迦や老子について、高尚な話をしていた。
門下生である、董庭蘭が傍で、いつも鼓や琴を奏でていた。
だから、董庭蘭は、この会に人を招く権利を持つようになっていた。
房かんが人を招くにあたり、董庭蘭が賄賂を取っていると、御史が粛宗に上奏した。
五月十一日、
房かんは、太子少師を辞めさせられた。
決まった官職、仕事がない散官となった。
諫議大夫・張鎬を中書侍郎、同平章事、即ち、宰相とした。
粛宗は、常に仮御所の中の道場で、僧侶数百人に、朝早くから、夜遅くまで、読経をさせていた。
張鎬は、云った。
帝王は、徳を積んで乱を終わらせ、民を安心させるべきです。
僧侶に食事をさせ、天下が太平になった話は、未だに聞いた事がありません。
粛宗は、納得した。
五月十三日、
上皇・玄宗は、粛宗の実母・楊良媛を“元献皇后”とした。
粛宗は、自身の親なので、(相談もなしに皇帝に即位した事もあり)、冊立しにくいだろうとの、配慮であった。
かつて、山南東道節度使・魯けいは、南陽を守っていた。
賊将、武令しゅんと、田承嗣が相次いで攻めた。
長い間の戦いで、城の中の物は食べ尽くしていた。
鼠一匹が数百文で、餓死者が、たがいに寄り掛かっていた。
粛宗は、宦官の将軍・曹日昇を南陽の者を労るために、遣わした。
着くと、急に兵士に囲まれ、城に入れなかった。
曹日昇は、詔を渡したいので、自分一人でいいから入りたいと、頼んだ。
だが、襄陽太守の魏仲犀は許さなかった。
丁度その時、顔真卿が河北から鳳翔へ行く途中であり、その場に居合わせた。
顔真卿は、云った。
曹将軍は、皇帝の詔を与えるのに、万死を顧みない。
何で邪魔をするのだ。
たとえ、届かなくても、一人の使者が亡くなるのに過ぎない。
届いたならば、即ち、城の心が一つに固まる。
顔真卿の言葉に説得され、魏仲犀は許した。
曹日昇と十騎が連れ立って行った。
賊軍は、その気魄に押されて、敢えて近づかなかった。
城の中では、望みが絶たれたと、お互い云い合っていた。
やって来た曹日昇を見て、皆、大喜びした。
多くの餓死者を見て、曹日昇は、襄陽から千人で食糧を運び込ませた。
賊軍は、止めさせられなかった。
魯けいが城を囲まれてから、丸一年、昼夜苦戦して、城を支える力は尽きていた。
五月十五日の夜、城を開き、数千人の兵士を指揮して、囲みを突破し、襄陽に向かって走った。
田承嗣が、これを追った。
戦うこと、二日。
賊軍は、勝てずに去って行った。
その時、賊軍は、南の揚子江、漢水が欲しくて進行していたのだ。
だが、魯けいが、その大切な要の場所を押さえた。
南中国は、すべて、守られた。
魯けい、范陽の人と云う。
かつて、書史であったといわれている。
ただ書史の言葉の前に“渉猟”や“略通”の熟語が付いていたりする。
どんな仕事をしていたのか?
いずれにしても、文官であろう。
左羽林軍の偉い人の補助をしたこともあったようだ。
顔真卿の下にいて、哥舒翰に上奏され、引っ張られたと云う。
哥舒翰は、顔真卿に
魯けいは、まさに節度使だ。
と、云った。
その時、側の階段の下に、魯けいがいたそうだ。
魯けいに、自覚を促したのかもしれない。
哥舒翰の下で吐蕃を破るのに功績があったりして、大将軍となり、紫金魚袋を賜った。
哥舒翰は、人を見る眼がある。
哥舒翰が欲しがる人は、必ずいい働きをした。
ここでも、証明した。