敗戦続き
夏、四月
顔真卿は、十月に平原城を棄て、安祿山がいる洛陽を避け、迂回して、南から鳳翔の粛宗の仮御所を目指した。
半年かけて、やっと着いた。
当然、平原を棄てた事を謝罪した。
だが、顔真卿の功績を思うと、責められるものではない。
顔真卿は、憲部尚書に任命された。
名称は変わったが、刑部尚書である。
この時、鳳翔には、唐を代表する詩人・杜甫と、同じように唐を代表する書家・顔真卿がいて、粛宗に仕えていたのである。
粛宗は、郭子儀をを司空とし、天下兵馬副元帥とした。
天下兵馬元帥は、粛宗の長男・李俶である。
実質、郭子儀が元帥と云える。
この時、李俶は、朔方節度使のある霊武にいた。
郭子儀は、粛宗の警護のため、将兵を鳳翔に遣わした。
四月十三日、
賊軍の李帰仁が、武装した騎馬の精鋭五千騎と共に、三原の北に向かった。
三原は、杜甫の家族がいる奉先より西である。
もし、負けたら、賊軍の支配が奉先に及ぶことになる。
杜甫は、落ち着かなかったであろう。
顔杲卿が殺されたので、一家の大黒柱を失った顏杲卿の家族は、賊軍に捕らわれたりして、まるで行方が分からないと云う。
そんな話を聞くと、杜甫は、ご先祖様や仏様に祈るばかりである。
郭子儀は、僕固懐恩、王仲昇、渾釈之、李若幽たち将軍を使って、白渠の留運橋に伏兵を置かせ、賊軍を襲った。
勝てる時に、やっつけなければと、ほしいまま、殺したり傷付けたりした。
李帰仁は、白渠から泳いで逃げた。
郭子儀と王思礼は、渭水を渡ってから、西渭橋のところで、軍を一緒にして進み、けつの西に駐屯した。
安守忠と李帰仁の軍は、長安城の西にある清渠に、八万の兵を擁する軍を置いた。
相対する事七日、官軍は、動かなかった。
五月六日、
安守忠は、退く振りをした。
郭子儀は、全軍で追った。
賊軍は、精鋭の騎馬九千騎を長い蛇のように陣を敷いていた。
官軍は、襲いかかった。
すると、長い蛇の陣は二つに折り畳まれ、左右から挟むように動いた。
逃さないように、官軍を包み込んで襲った。
官軍は、してやられた。
大敗した。
判官・韓液、監軍・孫知古ら皆、賊軍に捕らえられた。
十里以上、追いかけられた。
二万人が殺された。
軍の財産である兵器なども全て、棄てて逃げた。
郭子儀は、武功に退いた。
日を改めて戦った。
しかし、官軍は負け続けた。
暑さにため、兵士の多くが病となった。
李泌の言葉が、現実となったのだ。
遂に、軍を収め、鳳翔に退いた。
鳳翔の仮御所の、内も外も戒厳令を敷いた。
勝ちに乗じて襲って来ないように、厳しく警護をした。